誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2020年10月13日(火)
ヤコブの手紙 1:13-15 13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。14人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。15欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
【ポイント】 ①誘惑について考える 今日の個所を見ると「誘惑」とは「自分の欲に引かれ、おびき寄せられ」ることだと分かります。例えば、エペソ2章3節では「欲」についてこのように教えられています。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」つまり、神様の御心を行い、神様を喜ばせる行動ではなく、自分の心の望みを満たし、自分の肉体を喜ばせる行動を選択したいという心の動きが「欲」であり、その心に火をつけるような働きかけが「誘惑」だということです。
ここで、私たちがしっかりと捉えておかなければならないポイントは「欲」には様々な種類がありますが、問題はそれがどのような欲求、欲望であったとしても、その「欲」がもたらす結果について知っている必要があるということです。ヤコブの手紙の全体のメッセージを考えると、彼の心配はは「欲」によって、教会の主にある交わりが阻害されてしまい、最悪の場合は教会が崩壊してしまうということなのです。つまり、ヤコブはクリスチャンに禁欲的な生活な生活を求めているのではなく、「欲」が教会の中で争いや差別を生み出しているの出れば、試練としてその欲と忍耐強く戦うことを奨めているのです。目的は、教会における主の愛による一致なのです。
ですから、私たちは「どの欲と戦うのか?」と考えるのではなく、「どのようにして主の愛による一致を実現できるのか?」と考えることができるわけです。自分の欲を満たすことを止めることに集中するよりも、神様の御心を実現することに集中することが、効率的ですし、本来の目的を見失うことを避けることができるのです。つまり、教会でどれだけ厳しく禁欲的な生活を教え、信徒が修行僧のように熱心に取り組んだとしても、教会の中に差別や争いがなくなっていなかったとしたら、それらの努力が本来の目的を見失った、全く無意味なものであることを知ることができるからです。
コロサイ人への手紙 2章18-23節 18あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、19かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。20もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、21「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。22そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。23そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
ライフチャーチ 大谷信道