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2023年10月27日(金)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 3:11-12 11というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。12もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、13各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
【ポイント】 ①「信仰・救い」と「結婚」を重ねて考えると、すっきりと理解できる(ケースが多い)。 今日のような箇所を読むときに、自分の救いについて心配になる人がいるかと思います。その心配を払拭するためには、「信仰・救い」について頭でっかち(神学重視)になりすぎず、また同時に感覚的(聖霊体験重視)にもなりすぎないことが重要だと痛感しています。なぜなら、私たちクリスチャンにとっての信仰とは、神様(イエス様)との愛の関係が築かれている状態を意味しているからです。つまり、信仰を定義しているのはあくまでも、自分の言葉で理解できる聖書のみことばであり、神学でも経験でもないからです。
新約聖書には信仰を結婚にたとえた箇所がいくつもありますので見てみましょう。「1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。」(マタイ25:1)、「29花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」(ヨハネ3:29)「31『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:31-32)
まず、人間の結婚について考えてみましょう。二人が互いに愛し合う決意をし、結婚の約束をしたら、その二人が自動的に良い夫婦となり、良い家庭を築くことになるでしょうか。決してそのようなことはありません。二人が互いに仕え合い、支え合うことによって愛を深め、相手のために自分を犠牲にすることを心から喜ぶような関係が築かれていくためには時間が必要なのです。信仰も同じなのです。信仰決心、信仰告白をすることによって自動的に信仰が深められるのではありません。神様の愛に身を委ね、その愛に応答し、神様を愛し、神様に仕えることが心からの喜びになっていくのには時間が必要なのです。
それでは、「結婚直後の二人の愛は不十分であり、深い愛の関係が築かれるまでその結婚関係は正式なものではない。」などという人はいるでしょうか。いませんね。お互いに様々な失敗をしたり、相手を傷つけるような経験なしに結婚生活を送ることなど人間には不可能なのです。互いに試行錯誤しながら互いの愛を深め合うプロセスの途中で、結婚失格の烙印を押すようなことを私たちはしていないのです。信仰生活も同じなのです。イエス様を愛する決意をした後も、私たちは罪を犯したり、神様の愛を疑ったり、神様の愛が当然になり感謝を忘れたりと、その歩みはまさに試行錯誤なのです。ですから、そのプロセスの途中で自分に、または他の兄弟姉妹に信仰失格の烙印を押すようなことはしてはならないのです。
これまでは、健全な結婚生活、信仰生活を重ね合わせてきましたが、そうでないケースがあることも事実です。結婚式を行ったこと、婚姻届けを提出したこと、つまり結婚関係に安住し「釣った魚に餌をやらない」状態に陥る夫婦がいるのです。同じように、信仰決心、信仰告白、バプテスマを経た後に、救いの約束に安住し、イエス様を愛することがいい加減になってしまうクリスチャンがいるのです。先に述べたように、結婚生活の中では、そのような状況に陥ってしまう瞬間があるものです。しかし、そのような状況が常態化してしまえば、愛の関係が脆弱になってしまい、家庭に経済、健康、子育てなどに問題が起こると、結婚関係が揺らされてしまうことがあるのです。反対に言えば、そのような危機のときに、結婚関係が試されると言えるでしょう。 信仰生活も同じなのです。私たちイエス様に対する愛がいい加減なものになっていると、様々な危機に直面するときに、信仰が揺らされ、試されるのです。
パウロはイエス様の再臨の際の患難で、すべてのクリスチャンが信仰を試されると警告を発しています。その時に、私たちのイエス様に対する愛が本物であったのか、純粋なものであったのかが明らかにされるのです。ですから、パウロは教会の建て上げに励む、牧師、信徒たちは、その患難・試練に耐えられるような教会(一人ひとりの信仰)を建て上げるているのか、常に「どのように建てるのかを注意しなければなりません」(3:10)と教会全体に注意を与えているのです。コリント教会の中で「パウロにつく」「アポロにつく」などという議論をし、争っていることは愚の骨頂であり、そのようなことをしている場合ではないという強い警告を与えているわけです。
しかし、私たちがイエス・キリストを愛すること、隣人を愛することに、試行錯誤をしながら真剣に取り組んでいるのであれば、何も心配をする必要はありません。この取り組みを続けていれば、自分の救いについて、信仰について確信を持ちながら、この世での患難への備えをすることができるのです。キリストを愛すること、隣人を愛するという1点にだけ集中していれば良いのです。
ライフチャーチ 大谷信道