デイリーディボーション 10月5日(水)

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デイリーディボーション 10月5日(水)

2022年10月5日(水)
ローマ人への手紙 4章9-10節 9それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、10どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。
【ポイント】 ①旧約聖書を普通に読んで分かること  パウロは、この手紙に2章14節で「14――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。」と語っていました。この議論は、異邦人であっても、律法が命じる行いをしていれば義とされる可能性があるというものでした。  今日の個所は、律法すら与えられていないアブラハムの時代の話です。アブラハムが「義」とされたのであれば、それは割礼によるのでも、律法の行ないによるのでもないことを意味します。また、それはユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、人種も民族も関係なく、人は信仰によって義とされ得ることを意味しているわけです。  2章14節は、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、律法の命じることを行えば義とされるという議論でした。しかし、現実として、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが律法を完全に守ることはできないのです。人間には、律法の行ないによる義は不可能なのです。しかし、そのことによって、私たちすべての人間が罪人であることが明らかになり、神様に救いを求める以外に罪の解決策がないことに気が付くことができたのです。  ところが、旧約聖書を見れば、そもそもアブラハムは割礼を受ける前、そして、律法が与えられる前に、神様を愛し、神様を信頼するという「信仰」によって義とされていたことが記されているわけです。  この神様の御心は、その後のユダヤ人だけでなく、現代のクリスチャンにも誤解されているケースがあるわけです。それは「洗礼(バプテスマ)」についての理解です。クリスチャンの中にも、自分は洗礼(バプテスマ)を受けたから救われているという感覚を持っている人が少なくないのです。救いに、信仰以外の要素が入り込んでしまう現象は「律法の行ないによる義」への先祖返りとなってしまいます。もし、先祖返りするのであれば、もう一回先祖返りしてアブラハムと神様の関係にまでさかのぼりましょう。そこには、信仰による義が明確に記されて教えられて)いるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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