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2022年11月11日(水)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 6章5-7節 5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
【ポイント】 ① バプテスマ(洗礼)は罪を清める儀式ではない。 バプテスマはイエス様を信じる者に授けられるものです。この順番が極めて重要です。6節の最初から今日の個所までに次のような重要な点が記されているからです。「キリスト・イエスにつくバプテスマ」「キリストの死にあずかるバプテスマ」「キリストとともに葬られた」「キリストにつぎ合わされ」と、バプテスマは私たちのイエス様の関係性が先に存在していることが分かります。それは「愛の関係」です。何らかの宗教的な儀式によってキリストとの愛の関係が築かれることがあるでしょうか。人間が愛してもいない人と結婚式という儀式を行うことによって、一生愛し合い、一生仕え合い、互いに一心同体と思い、互いのために自分の命を犠牲にしてもよいと思えるほどの愛情が築かれることなどあるでしょうか。ありません。バプテスマ(洗礼)が救いのための儀式、救いのための条件と考えている人がいるようですが、救いは私たちのキリストの愛の関係の結果として結ぶ実ですから、決してそのようなことはあり得ないのです。
クリスチャンの中には、バプテスマ(洗礼)を受けるとクリスチャンとしての「自覚」が芽生えるとか、バプテスマ(洗礼)を受ければ信仰の決心が固まるなどと考える人がいるようです。つまり、「既成事実」を作ってしまえば、後戻りできなくなるという考えが根底にあるのです。しかし、それを男女の結婚(愛の関係)に置き換えてみると、それが全く良くないことが分かります。「結婚式を挙げてしまえば、夫婦としての自覚が芽生えるよ!」などと言って、確信がない相手に結婚を迫るようなことはあり得ないですね。しかし、そのようなことと大差ない形でバプテスマを勧めたり、行なったりする教会があるわけです。幼児洗礼も同じです。途上国などでの「児童婚」が問題になっていますが、幼児洗礼はそれに似ていると思いませんか。周りの大人たちが子どもの祝福を強く願っての行為であったとしても、本人の意思(愛)が反映されていないバプテスマは、児童婚と似て不健全なものであり、また非聖書的な行為なのです。
イエス様との愛の関係が見過ごされると、私たちの信仰は骨抜きになり、形だけの「宗教」になってしまうのです。
ライフチャーチ 大谷信道