誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2023年11月17日(金)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 4:1-3 1こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。2この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。3しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
【ポイント】 ①イエス様の福音の忠実な管理者となる これらの個所から、パウロはイエス・キリストの福音を正確に聞き、受け取り、伝えているという確信を持っていることが分かります。これまで学んできた通り、「イエス・キリストを信じる(愛する)信仰によって義とされる」という福音のメッセージは、ユダヤ人の社会でも、異邦人の社会でも愚かなものに聞こえたと思います。律法主義に染まってしまったユダヤ人にとっては、何もしないで神様に義とされるなどというメッセージは不公平で不正なものだと感じたことでしょう。ギリシャ・ローマ時代の哲学や思想に精通した人にとっては、何の学問的な深みもない幼稚な戯言のように聞こえたことでしょう。しかし、パウロは自分がイエス様から受けた福音に確信を持っていたのです。
パウロがイエス様の福音に確信を持つことができた理由は、彼が一切の不正やごまかしを赦さない潔癖で正直な人間であったことだと思います。ローマ人への手紙の7章にパウロの潔癖さと正直さを垣間見ることができます。
ローマ人への手紙 7章22-24節 22すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
この潔癖さと正直さは大変危険な側面を持っています。なぜなら、誰でもパウロと同じ基準で自分自身の不完全さ(罪深さ)を正直に見つめたとしたら、私たちはその深刻さゆえに自分を赦すことができず、さばき続けることになるからです。その状態は一種の鬱状態だと思うのですが、ある意味自分に嘘をつき、ごまかし、「まあいっか」というようないい加減さを身につけない限り、その状態から抜け出すことはできないと思うのです。
しかし、パウロはイエス様の愛の福音のみに救いを見出したのです。「まあいっか」と自分を騙し、適当な人間性に切り替えたのではなく、神様の前での潔癖さと正直さを持ち合わせたまま、自分の罪深さを直視ししたまま、その自分を愛し、赦し、受け入れてくださるイエス様の愛によって、神様の前で義とされることを知ったのです。つまり、罪について潔癖で正直だったパウロは、イエス様の福音を信じる以外に、神様の前で義とされる方法は一切ないことを自分の体験から確信したのです。どのような修行も、どのような宗教、思想、哲学の勉強も、どのような善行を積むことも、どれだけ厳しく律法や戒律にしたがうことも、自分の罪の問題を解決することができないことを確信したのです。
私たちはパウロと全く同じ体験はできないかもしれませんが、自分の罪深さにパウロと同じような潔癖さと正直さをもって向き合ってみれば、いかなる努力や訓練をもっても、絶対に罪を克服できないことが分かるはずです。同時に、私たちがこの1点に気づけば、あらゆる宗教、思想、哲学は無力で、空しいものであることに気づき、イエス様の福音以外に私たちを救うものがないという確信を持つことができるはずです。
ライフチャーチ 大谷信道