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2022年12月13日(火)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 7章24-25節 24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
【ポイント】 ①パウロの正直さに倣う その4 人間と動物の決定的な違いが今日のパウロのことばに示されている気がします。知能の高い動物を見ていると、人間と同じような感情や感覚を持っていることに気が付きます。例えば、犬を見ていても、非常にポジティブで自己評価が高いと思われる犬もいれば、何事にも消極的で自信がないように見える犬もいます。しかし、人間のように、神様の前での絶対的な正しさを知り、自分がその正しさを持っているか否かを確認したり、神様のまえでの不完全さに絶望したりする犬はいないのです。
このように、人間は神様の前での絶対的な正しさについて考える動物ですが、宗教によってその基準が様々であるように見えます。それでは、神様の前での絶対的な正しさ、普遍的な正しさというものなど存在しないのでしょうか。私の個人的な考えでは、絶対的な正しさは存在すると思っています。この世には様々な宗教や思想があり、それぞれが自分たちの倫理観を持っているわけです。例えば、人間の罪深さ、人間の性(さが)についても理解は様々だと思います。しかし、特に人間の罪深さに限っては、私たち人間(各宗教)がとことん突き詰めて行けば、たどり着く結論は1つになると信じています(これも、個人的な考えです)。
わたしが聖書が真理を語っていると確信できる理由の一つはそこにあります。今日のパウロのことばも含め、聖書は人間の本質について、そして人間の不完全さについて、一切妥協することなく、一切ごまかすことなく追求し、正確に教えているのです。人間の罪深さは、儀式や呪い(まじない)、鍛錬や訓練、または律法や戒律などによって克服できるようなものではなく、宗教指導者を含め、すべての人間は神様の前では極めて罪深く、極めて汚れた存在であるのです。そして、どの時代、どの地域に住んでいようが、人間が自分の罪の性質について一切の妥協を許さずに向き合った時に、自分の罪深さに絶望し、神様に赦しを頂く以外に解決の方法がないことに気が付くはずなのです。その結論に到達しないとしたら、そこには妥協やごまかしがあるのです。
パウロは自分の罪深さに絶望したときに、イエス様と出会いました。かれはユダヤ教におけるエリートでしたが、ユダヤ教という宗教には救いがないことに気づき、絶望したのです。彼が誰よりも真剣に命懸けで神様の前での正しさを追求することによって、それが不可能であることに気づいたのです。しかし、それはパウロだけの特別な出来事ではないのです。
私たち、すべての人間も同じ道をたどることができるのです。大切なことは、自分の心に正直になることです。宗教的な儀式で罪が贖われる(罪の問題を解決できる)などと考えている人は、自分の心に不正直なのです。なぜなら、心の奥底では、儀式などで人間の罪の問題が解決できるなどとは思っていないはずだからです。キリスト教においても、すべての指導者、信徒が神様の前で正直になったとしたら、例えばカトリック教会・プロテスタント教会で行われている小児洗礼は全く意味のない行いであることに気が付くことでしょう(すでに気が付いているはず)。聖霊の満たしを強調する教派の人たちも、私たちがどれほど聖霊で満たされたとしても、依然として罪の性質を持ち続けていることに気が付くことでしょう(すでに気が付いているはず)。
大切なのは、神様の前での正直さなのです。
ライフチャーチ 大谷信道