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2023年12月14日(木)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 4:18-21 18私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。19しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところあなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。へ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。20神の国はことばにはなく、力にあるのです。21あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。
【ポイント】 ①パウロの厳しい言葉の理由は? 今日のポイントは、過去のクリスチャンたち、現在のクリスチャンたち、そして未来のクリスチャンたちが真剣に考えるべきものです。なぜなら、現代、そして過去のキリスト教界はカトリック教会であれ、正教会であれ、プロテスタント教会であれ、ことごとく「書かれていることを越えない」というパウロの命令を破っているからです。
過去について言えば、この問題の一番の責任は教職者にありました。なぜなら、一般の信徒の識字率が低かったり、自分で聖書を所有することが難しかった時代は、教職者の教えに頼り、それが聖書に書かれている事であると信じるしかなかったからです。
ところが、識字率が高くなった現代においては、一人ひとりのクリスチャンがその責任を問われることになります。自分の属している教団、教派の教会の中で「書かれていないこと」ばかりが行われ続けていることは、正式な神学教育などを受けていなくても、聖書を読めば明らかだからです。ですから、神様の前で「知らなかった」という言い訳は通用しないのです。
パウロが今日の個所でコリントのクリスチャンたちに非常に厳しく迫っている理由はここにあると思います。つまり、パウロはコリントの教会の人々が、たとえ字を読むことができないとしても、彼らが100%理解できるように福音を正確に伝えたという自負があるからです。つまり、彼らは確信犯的に「書かれていないこと」を教えたり、実践していたのです。ですから、パウロはコリント教会の人々は、神様に対してだけでなく、パウロに対しても、「知らなかった」とか「教えられていなかった」などという言い訳が通用しないことを知っているがゆえの厳しさなのです。
私たちは、パウロの厳しさについて勘違いしてはなりません。言うまでもなく、彼の態度はパワハラでもモラハラでもありません。パウロは、コリントの教会の人々だけでなく、すべての人が、やがて神様の前に立たされるときのことを考えていたのでしょう。パウロはローマ人へのてがみ14章12節で「12こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」と教えていますが、もし、私たちがイエス様が明らかにされた神様の御心、つまり「書かれていること」に忠実に歩んでいなければ、彼らが「パウロのむち」とは比べ物にならないほどの厳しい裁きを受けることになることを知っていたのです。それは、神様にとっても、パウロにとっても喜ばしいことではないので、そのようなことが起きないように、親心からコリントの教会のメンバーを戒めていたのです。
現代のクリスチャンの置かれている状況は、当時のコリント教会のクリスチャンと似ています。なぜなら、当時のコリント教会のクリスチャンも、現代のクリスチャンも、確かにイエス様のみことばを聞き、理解しているからです。ですから、今日の個所のパウロの厳しさは、私たちにもそのまま向けられていることになるのです。私たちが裁きの座に立たされた時に「知らなかった」「聞いていなかった」「みんなそうだったから」などという言い訳は通用しません。ですから、私たちはイエス様の福音、イエス様の命令に従うことだけに全身全霊を傾けるのです。私たちが、いかに熱心いキリスト教の伝統、習慣、風習、教会のイベントやミニストリーに取り組んだとしても、どれほど宗教熱心になったとしても、イエス様のみことばと関係の無いことに熱心だったとすれば、その間違いについて必ず明らかにされる時が来るからです。
ヨハネの福音書 13章34-35節 34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
ライフチャーチ 大谷信道