デイリーディボーション 12月14日(金)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 12月14日(金)

2018年12月14日(金)
コリント人への手紙 第2 8:12-15 12もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。13私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。14今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。15「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。
【ポイント】 ①パウロの教会のビジョンを理解する 今日の箇所からもパウロの教会に対するビジョンを見ることができますね。パウロは、互いの欠乏を補うことが教会の本来の姿であると信じているのです。しかし、それは強制力や罰則を伴う「税金」「上納金」などのようなものではなく、互いの「愛の表現」「愛の実践」としての助け合いなのです。昨日の8節をもう一度確認してみましょう。「8こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。」第1ヨハネ3章18節にもこのように記されています「18子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」 イエス様の愛の命令は、個人の関係だけでなく、教会と教会の関係にも適用されるのです。
さらに、パウロの助け合いの精神の根拠は「キリストの相互愛の命令」だけでなく、旧約聖書に記されている「神様の前での平等」にあります。15節は出エジプト記16章からの引用です。神様が荒野でイスラエルの民に「マナ」の与えられた出来事についてこのように記されています。
出エジプト記16章 15イスラエル人はこれを見て、「これは何だろ」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。16主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」17そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。18しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。
神様は、愛する民一人ひとりに過不足なく恵みを与えたいと思われているのです。マナに関しては神様は一人に十分な量として「ひとり当たり一オメル」と定められました。ですから、一見するとマナを多く集めているように見える人がいたとしても、それは家族の人数が多いためであり、少なく集めているように見える人がいたとしても、それは家族の人数が少ないためであるということなのです。
この「平等」の状態は、基本的に荒野での生活の中だけで実現していたものだと思われます。しかし、等しく祝福を与えたいという神様の御心に変わりはないということです。
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info