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2022年12月06日(火)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 7章1-6節 15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。16もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。17ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。20もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
【ポイント】 ①パウロの正直さに倣う この世の宗教には常に「偽善」が存在していると思っています。わたしたちキリスト教会も、自分たちの偽善を認めず、教えと実践に乖離があることに見て見ぬふりをしていたとしたら、私たちキリスト教会も偽善の宗教団体ということになってしまうのです。イエス様が当時の律法学者やパリサイ人を厳しく非難した理由の一つはそこにあるのです。マタイ23章でイエス様は次のように指摘されている通りです。「3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」
それでは、もし律法学者やパリサイ人が自分たちが教えている通りに行動していたら、イエス様の非難を免れたのでしょうか。決してそうではありません。なぜなら、パウロが今日の個所で「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない」と正直に告白している通り、私たち人間は、死ぬ気で律法を守ろうとしても、また他者からは表面的には守っているように見えていたとしても、自分の罪深さを完全に克服することは不可能だからです。事実、パウロは過去の自分について、ガラテヤ人への手紙1章で「14また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」と語っていますね。つまり、当時誰よりも律法やユダヤ教の教えに忠実に生きていたこと、さらにそのパウロの生き様の証人がたくさんいたということになります。その、パウロが克服できない罪について正直に告白していることは驚くべきことであり、同時に、他の誰もそれが不可能であることの証拠でもあるのです。そして、この正直さが私たちキリスト教の健全さの証しなのです。
正直に自分の罪深さを直視し、その現実の悲惨さに気が付いた人は生きる希望を失うほど絶望するはずです。そして、この絶望が救いを求める原動力になるのです。この世的なご利益が神様を求める原動力になっている人がたくさんいます。残念ながらクリスチャンのなかにもそのような人がいることでしょう。しかし、パウロの証しを聞くと、私たちがイエス・キリストの救いを求める理由は、現世利益などではなく、絶望からの救いであることが分かるのです。そして、そのような神様の求め方(信仰)こそが、純粋で健全なものであることが分かるのです。
このパウロの信仰のあゆみに倣おうではありませんか。すでにクリスチャンとして歩んでいる方も、さいど自分の罪深さの現実を直視してみましょう。その深刻さを真に自覚できれば、現世利益などなくても、イエス様を信じる信仰によって救われている事実だけで、心が満たされるのではないでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道