デイリーディボーション 2月5日(水)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 2月5日(水)

2020年2月5日(水)
テサロニケ人への手紙 第一  5:25-28 25兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。26すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。27この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。28私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。
【ポイント】 ①再臨の備える教会の姿(聖書的な教会の姿)を理解することができましたか? 一般的に、多くの宗教における信仰の中心は「祈願の成就」です。現代においても人々の信仰心のきっかけは、お金、健康、権力、安全を与えて欲しいという欲求であることがほとんどでしょう。残念ながら、クリスチャンになり、聖書を学ぶようになっても、この世俗的な宗教(信仰)のイメージから離れられない人が少なくないようです。「祈願の成就」が信仰の目的であれば、人が神のために生きるのではなく、神が人のために生きるという、神と人との逆転がおきていることになります。ちょっと考えれば誰でもこの自己矛盾に気が付くはずですが、そうなっていないというは、人間の祈願の成就という欲求がいかに強いのかということの証拠なのだと思います。
とはいえ、ほとんどのクリスチャンは「祈願の成就」という入り口から、教会に通い始めたり、聖書を読み始めたことでしょう。であれば、私たちはその間違いに気づき、正しい入り口から入り直せばよいのです。その入り口とは、次のイエス様の招きのことばです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。26人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16章24-26節)
イエス様の招きのことばを一言で言えば、祈願の成就という欲求を捨て、キリストの僕として従いなさいということです。この召しを受けた人は、キリストに仕え、キリストのからだである教会に仕えることを第一とする生き方を選ぶようになるはずです。
この生き方は「十字架を負う」歩みでもあるので、様々な労苦を伴います。好き嫌いを越えて、人を愛し、赦し、受け入れること。互いの重荷を負いあうこと。励まし合うこと。どれも、痛みや労力を必要とする大変な作業です。しかし、私たちはこの歩みを喜びの内に選び取ることができます。なぜなら、主とお会いする時に、この労苦の報いをいただくことができるからです。
主とお会いする時に与えられる報いに希望を置く者の群れが教会なのです。それが聖書的な教会の姿なのです。
ライフチャーチ 大谷 信道


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