デイリーディボーション 3月19日(月)

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デイリーディボーション 3月19日(月)

2018年3月19日(月)

【通読】
ローマ人への手紙 9:24-29
24神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。25それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。26『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」27また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。28主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」29また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

【ポイント】
①無視し続けられる聖書のみことば
旧約の時代から現代に至るまで、聖書を信じない人たちによってではなく、聖書が神のことばであると信じている人達によって、聖書のみことばは無視し続けられてきています。

以前もお分かちしましたが、私が学んだアメリカの神学校の倫理学の授業で、教授は「戦争で人の命を奪うことは、十戒の六番目『
殺してはならない』という戒めに違反するものではない。」と断言していました。殺意をもって人の命を奪うことは「murder」であって、これは十戒で禁じられている行為だけれども、戦争で人の命を奪うことは「killing」であって、本質的に別の行為であると言うのです。

ここでの問題は自己正当化です。残念ながら、地上においては国と国の問題が戦争に発展するという現実があります。しかし、アメリカの保守(超保守)なクリスチャンは自分たちが聖書に忠実であることを自負しています。ですから、戦争で人の命を奪うことも罪であると認めてしまうと、自分たちが十戒を破っていることを認めることになってしまうわけですが、それが嫌なのです。ですから、自己正当化の手段として、いかにも聖書的に見える説明を繰り返すのです。イエス様の時代のパリサイ人とそっくりですね。

もし、彼らが、「戦争における殺人はイエス様のみ心に反する罪であるが、地上においては戦争を避けることができず、私たちは苦しんでいるのです。」と告白すれば、神様の前に誠実であると思います。なぜなら、私たちは地上において罪を犯さずに生きていくことは不可能だからです。神様から禁止されていると分かっていても、どうにもならないことが起きてしまうのが地上の現実、私たちクリスチャンにとっての日々の現実だからです。

戦争で殺人を経験した軍人が罪の呵責から精神的な病に陥ってしまうケースが数え切れないほどある事実が、戦争での殺人も罪であることを示唆していますね。

パウロの時代のユダヤ人も同じです。聖書には神様の自由な選び、異邦人の祝福についてはっきりと書かれているのに、当時のユダヤ人にとっては認めたくない事実だったのです。心の底では、イエス様の福音こそが聖書的なメッセージであることを知っていても、自分たちが特別な民であると思い続けていたかったので、それらの箇所を無視し続けたのです。

②罪人であることを認め続ける
自己正当化の誘惑は他人事ではありません。私たちは、何年間クリスチャンとして生きていても、何十年間牧師をしていたとしても、依然として不完全な人間であり、数えきれない罪をおかし続ける存在であることを、神様の前で認め続けることが大切です。自分の生き方、教会のあり方も不完全で、そこには聖書との矛盾が常に存在していることを認める続ける必要があります。同時に、互いの不完全さを認め合い、赦し合っていくことが求められるのです。

自分が正しく、落ち度のないクリスチャンでありたいという思いは素晴らしいのですが、大切なことは、そうでない現実を認め、つまらない自己正当化しないことなのです。

「16たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。17神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51-16-17

ライフチャーチ
大谷信道


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