デイリーディボーション 3月20日(火)

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デイリーディボーション 3月20日(火)

2018年3月20日(火)

【通読】
ローマ人への手紙 9:30-33
30では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。31しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。32なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

【ポイント】
①クリスチャンであることに安住しないクリスチャンの中には「自分は福音主義である!」「自分は聖霊派である!」とか「◯◯教会のメンバーである!」「〇〇という神学者が好きである」というようなことにある種の「誇り」「プライド」を持っている人が多くいるという印象を持っています。確かに、自分が信じている事柄(聖書理解、神学など)について明確にしていることは大切なことかもしれません。しかし、「キリストの恵み」以外に何らかの「誇り」を持つようになることは、ユダヤ人の失敗を繰り返してしまう可能性があるのではないでしょうか。つまり、私たちクリスチャンは自分の努力、神学、出身教会、受洗牧師などとは一切関係なく、ただ神様の自由な選びと恵みとによって救われているだけの存在であることを忘れてはならないということなのです。

エペソ2章でパウロはこのように教えています。「8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

ユダヤ人も、私たちクリスチャンも絶対に忘れてはならない事柄があります。それは、私たちの全員がやがてイエス様の前で裁きを受けることになるという事実です。そこでイエス様は何を見られるのでしょうか?人種、民族、地上での国籍でしょうか?属している教会でしょうか?信仰的な主義でしょうか?そうではありません。イエス様に対する愛、イエス様に対する忠実さです。先に述べた事柄はほとんど何の意味も持たないのです。

ユダヤ人はこの点について非常に甘く見ていた可能性があります。「表面的に律法さえ守っておけば大丈夫!」だと考えていた部分があるのです。それでは私たちクリスチャンはどうでしょうか。「イエス様を信じていれば天国に行けるから大丈夫!」と高をくくっている人はいないでしょうか。もちろん、私たちは「信仰による義」(9:30)をいただいています。しかし、ユダヤ人が「選び」を誇ったように、「信仰による義」を誇り、そのタイトルに安住してはならないのです。

繰り返し学んでいますが「信仰」は「愛」です。私たちはキリストの十字架を通して天の父の愛を知り、その愛を受け入れ、天の父を愛する決意をしたものです。私たちの信仰の歩みは、宗教活動の歩みではなく、神を愛し、隣人を愛する歩みなのです。イエス様が最後のさばきでご覧になるのはこの点なのです。ユダヤ人の失敗からしっかりと学び、形だけの宗教に陥ることがないように、常に愛による歩みを続けていきましょう。そして、その実践の場が教会なのです。(ローマ人の手紙では12章でこのテーマに入っていきます。)

ライフチャーチ
大谷信道


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