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2018年4月10日(火)
【通読】
ローマ人への手紙 12:2
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
【ポイント】
①「神のみこころ」に注意
人は自分の将来について大きな関心を持っています。ある人は期待に胸を膨らませ、ある人は将来の不安のためにストレスを感じています。私たちクリスチャンも例外ではありません。ですから「神様のみこころ」と聞くと、多くの人が「神様の自分の人生についての計画」と同義語として捉えてしまうようです。そして「神様のみこころが分からない。どうしたらいいのだろう!」となってしまうのです。そうなると「神様のみこころがわからない」となってしまうのです。そのような「みこころ」の理解は、まさに「木を見て森を見ず」なのです。自分についてのみこころという「小さなこと」に関心を寄せてしまう結果、聖書にはっきりと記されている神様の計画、願いなどといった「大きなこと」を見失ってしまうのです。もちろん、神様は私たちの髪の毛の数という極めて小さなことまでご存知なので、心配は不要です。(ルカ12:7)
そこで、聖書の系統だった理解(聖書の学び)が重要になるのです。「主のみこころ」についてしっかりと学び、覚えておきましょう。
さて、今日の箇所でパウロは「神のみこころ」についてどのようなことを念頭に置きながら語っているのでしょうか。突然、文脈とは全く関係のない事柄について話し始めたのでしょうか。「ローマ人への手紙は11章までは教理について、12章からは倫理についての教えが記されています。」と説明する人、「パウロは精神的な疾患を持っていたので、話があちこちに飛んでしまうのだ。」と得意げに説明をする牧師を見たこともあります。恐らく「教会形成」よりも「学術研究」に興味のある方にそのような傾向があるような気がします。同じように「教会形成」よりも「個人の祝福(ご利益)」が気になっているクリスチャンも、全体のテーマを見失ってしまうことでしょう。
前置きが長くなりましたが、前後の文脈から見ると、ここでの「神のみこころ」とは、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの和解、一致です。もイエス様の「神のみこころ」とは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:12)、「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:35)というみことばとも合致しますね。
私たちは、教会にあっても、家庭あっても、何よりも「主に愛されている者として互いに愛し合うこと」に熱心に取り組めば良いのです。その取り組みこそが「みこころ」を行うことであり、「教会、家庭で愛を実践するために何をしたら良いのだろうか?」と考えることが「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ことだからです。
ライフチャーチ
大谷信道