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2022年4月12日(火)
マタイの福音書 23章13-15節 13わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。15わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にする
【ポイント】 ①パリサイ人の問題点を正確に理解する イエス様、そして天の父から見たパリサイ人の問題点を一言ことで表現すると、彼らが「神様との愛の関係について無知であったこと」ではないかと思います。これは、パリサイ人だけでなく、信仰熱心なクリスチャンであれば誰でも陥る可能性のある一種の「罠・トラップ」であるとも言えるでしょう。
今日の個所では、パリサイ人が非常に伝道・海外宣教に熱心であったことが分かります。当時の旅行は盗賊や迫害などの危険を伴うものでした。もちろん、自動車も飛行機もないわけですから、肉体的に過酷なものであったと思われます。パリサイ人たちは、このような大きな犠牲を払いながら、彼らの信じるユダヤ教を布教していたのです。この点については、イエス様(天の父)の御心に反するものでは
さらに「改宗者をひとりつくる」という箇所から、彼らの伝道対象は「異邦人」であったことが分かります。パリサイ人が異邦人を差別的に見ている箇所がいくつもありますが、伝道のためには異邦人との交わりを持っていたことが分かります。彼らが一方的に異邦人を差別していたわけではないのです。布教の結果、異邦人がユダヤ教に改宗し、ユダヤ人として生きて行く決意をすれば、彼らを同邦として迎える覚悟があったということです。このようにして見ると、パリサイ人は私たちクリスチャンから決して遠い存在ではないことが分かります。
しかし、パリサイ人たちには神様の御心についての決定的な誤解がありました。それは、律法の行いによって、神様から義とされると信じていたことです。つまり、人間は律法を守る努力によって神様の前で正しい者になることができると勘違いしていたわけです。この勘違いによって、パリサイ人たちは、神様との関係を築くことではなく、律法・教師たちの教えを守ることに熱心になってしまったのです。律法に込められた神様の思いを考えることよりも、表面的に律法を守ることに一生懸命取り組んでしまったのです。
「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、細部に捕らわれ、全体像を見失ってしまうという現象はどこにでも起きる可能性があります。ですから、私たちクリスチャンも、宗教熱心になった結果、神様の御心を見失ってしまう可能性が常にあるということなのです。例えば、「あなたが伝道する理由は何ですか?」と聞かれたときに、どのような答えが頭に浮かぶでしょうか。「イエス様の命令だから」「その人が天国に行ってほしい(罪が赦され地獄に堕ちて欲しくない)から」「その人が神様の祝福を受けて幸せになってほしいから」「教会のメンバーを増やしたい」「伝道成績を上げたい」というような答えを思いついた人は、パリサイ人のように「木を見て森を見ず」になってしまっている可能性があります。
ルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ」を読んだ時に、弟が「父の家に住む権利」「子としての権利」「食事」「衣服」などを取り戻したことを喜んだと理解する人はいません。弟は喜んだのはただ1点、父との愛の関係の回復です。放蕩息子は罪深い自分を変わらずに愛し続ける父の愛に気づき、父のもとへ帰りました。父は息子の帰りを喜び、抱擁したのです。これが、私たちが味わうべき神様との愛の関係であり、分かち合うべきイエス様の愛の福音なのです。
パリサイ人は、放蕩息子の兄のような生き方に陥り、放蕩息子の兄のような人々増やしていたのです。どんなに熱心に伝道したとしても、神様の御心ではなかったのです。
ルカの福音書15章11-32節 lonelymoonchild.in.coocan.jp/cgi-bin/biblesearch.cgi?key=1zW78IlDP9@2EaQ&word=luke+15:11-&dspnum=11&ver=3
ライフチャーチ 大谷信道