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2022年4月13日(水)
マタイの福音書 23章16-22節 16わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』17愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。18また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』19目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。20だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。21また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。22天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。
【ポイント】 ①パリサイ人の問題点を正確に理解する その2 「誓い」についてのイエス様の結論は次の通りです。
マタイの福音書5章33-37節 33さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。35地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。36あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。37だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
つまり、人に対して何かを約束するときに、わざわざ神様を持ち出して「誓い」を立てる必要はないということなのです。約束を実行する覚悟があれば「はい、約束を果たします」と言えばよいし、約束を果たすことが難しい場合には「いいえ、約束を果たすことができません」と素直に言えばよいということです。現実社会でも、物語の中でも、約束を反故にし、人を騙そうとする人ほど「〇〇に誓って」というようなセリフを言うものですね。
さらに今日の個所では、「誓うな」という直接的な命令ではなく、別の角度からパリサイ人の問題を指摘しています。それは、パリサイ人の「神様の臨在についての誤解」です。「誓い」は無意味なものだけれど、ここでイエス様はパリサイ人たちが理解できるように、彼らの視点に立ち神様の前で誓いを立てるということが有効なものであると仮定して話をされています。イエス様のポイントはこうです。「パリサイ人よ、あなた方は勝手に誓いのルールを決めているが、全知の神はどのような方法で誓いを立てようが、その全てを見、聞き、知っておられるのだよ!あなた方は、目には見えないが、今生きておられ、すべてをご存知の天の父を信じていないのか?」16節の「目の見えぬ手引きども。」とは、そういうことなのです。
私たちの信仰生活で同じことが起きていないでしょうか。あなたが祈る時、賛美を捧げるとき、礼拝をささげる時、あなたは神様がどこにいると思いながら祈っていますか。空の上、宇宙のかなたにいる方にですか? それとも、目の前におられる方ですか?もし、前者であれば、今日のパリサイ人と同じ現象に陥っていることになりはしないでしょうか?
ライフチャーチ 大谷信道