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2022年4月7日(木)
マタイの福音書 23章8-10節 8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。9あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
【ポイント】 ①律法を増やす必要はない この個所を初めて読んだときに、「えっ、『先生』『われらの父』『師』という言葉を使っちゃいけないの?」と思った人もいることでしょう。しかし、私たちが思い出さなければならない最重要ポイントは、22章で学び、次の11節にも記されているように「11あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」ということなのです。つまり、自分の地位(偉さ)を確認させるために、「先生・師」などという言葉を自分よりも偉くないと思っている人たちに強要すること、自分を卑下し、相手に媚びへつらうために誰かを「先生・師」など呼ぶことは神様の御心ではないということです。父という言葉についても同じです。唯一の神様以外の人間に対して神様に呼びかけるような語句を使ったり、そのような思いを持つことは、神様の御心ではないのです。
リベラルな立場をとる教会では、イエス様の他のみことばについては自由に解釈しますが、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません」というみことばについては文字通りに受け取り、牧師は「〇〇さん」と呼ぶようにしているようです。面白い現象ですね。キリストの愛による自由があるならば「〇〇先生」でも「〇〇さん」のどちらでも自由で良いのではないでしょうか。
ですから、私たちキリスト者は「先生と呼ばなければならい」「先生と呼んではならない」などという、新しい規則(律法)を作る必要などないのです。大切なことは、教会の教職者やリーダーが権威を振りかざしたり、威張ったりしないこと。そして信徒が教職やリーダーを権威者として持ち上げたり、媚びへつらったりすることなく、主にある兄弟姉妹として愛し合い、互いに仕え合うことをイエス様の愛への応答として行うことです。
さらに、繰り返し学んでいることですが、これらの問題の唯一の解決策は、私たちが神様の愛を受け取り、神様に愛されることで心の満たしを覚えることです。人から先生・師・父などと呼ばれることに喜びを覚えていた人は、それが実にくだらないものであることに気が付くことでしょう。神様の愛に触れ、自分の罪深さ知り、全人類も等しく罪深い者であることを知れば、誰かが偉く見えることもなくなるでしょうし、そのような人に気に入られたいと思ったり、認められたいと思ったりすることが馬鹿らしく思えることでしょう。
ライフチャーチ 大谷信道