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2021年5月11日(火)
ユダの手紙 1:5-8 5あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。6また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。7また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。8それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。
【ポイント】 ①常に異端に注意する 私たちの信仰の中心はキリストの愛の中に歩むことです(参:ヨハネ4章)。キリストの愛の中を歩む者は、自分を愛する方を愛し、その方が喜ばれる生き方を選び取ることに、自分自身も喜びを覚えます。ですから、「肉体を汚すこと」を主が喜ばれないのであれば、それが文字に書かれた戒律でないとしても、主への愛ゆえにそれらの行いを避けるようになるのです。また、誘惑に負けてしまったとしても、罪を犯した自覚があれば、主の前に悔い改めるという行動に促されるのです。ですから、愛の実践ができたとしても、失敗したとしても、主の愛の中に歩むことになるのです。
この「主の愛の中に歩む」ことから、外れると「律法主義(戒律中心)」「神秘主義(特別な経験や知識重視)」「ご利益偏重」「机上の哲学的(頭でっかち)」のような、信仰の一人歩きというような現象が起こってしまうのです。すべてに共通する特徴は「自分の興味・欲求」を満たす方向だったり、自分で勝手に作り上げた宗教のイメージに進んでしまうことです。
ユダの手紙の中に見ることができる異端は「肉体を汚すこと」、つまりキリストを愛する者が共有している倫理、道徳を無視しても問題ないと教えるようなものだったことが分かります。現代の私たちは、1世紀には完成していなかった「新約聖書」を手にしているので、そこに記されているイエス様のみことばを読めば「肉体を汚す」ような行為を、イエス様が喜ばれるはずがないことを知っています。しかし、まだ「新約聖書」がなかった時代には、簡単に異端が入り込んでしまったのでしょう。しかし、この異端の間違いは、旧約聖書を見ても明らかですから、ユダは旧約聖書(旧約時代の書物)を引用して、異端に引きずり込まれないように注意を与えているのです。
残念なことに、現代においても、明らかに聖書に反していることが教えられているような「異端」に騙されてしまう人が後を絶ちません。そこには、巧みな話術や洗脳のテクニックがあるのだと思います。しかし、少なくともすでに信仰を持っている私たちクリスチャンは、耳にするすべての教えについて、それらが聖書と合致しているのか否かを確認することができるのです。
ユダの「あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。」という呼びかけは、現代に生きる私たちにも向けられているのです。
ライフチャーチ 大谷信道