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2021年5月12日(水)
ユダの手紙 1:9-12 9御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。10しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。11ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。12彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、
【ポイント】 ①現実の失敗から学ぶ 9節の記述は「モーセの昇天」という偽典(様々な理由から旧約聖書39巻に入らなかった書物)からの引用です。ユダが聖書以外の「偽典」を引用したために、ユダの手紙の正典性(ユダの手紙が神のことばとして新約聖書に加えられるべきであるか否か)について疑問を持つ人たちもいたようです。ただ、ユダの一番の主張は、聖書のみことばに従った者の祝福と、そうでなかった者の裁き(滅び)について、手紙の受け取り手であるユダヤ人クリスチャンたちが、自分たちの祖先の現実の歴史から学ぶべきだということです。なぜなら、過去に祖先が犯した間違いを同じようなことが、ユダヤ人クリスチャンの教会の中で起きつつあったからです。
ところが、人類の歴史、私たちの暮らす日本の歴史を見て分かることは、人間は歴史から学ばないということです。最近の出来事としては、日本のコロナ対策でさえ、1年前、数カ月まえの失敗を学ばずに、同じことを繰り返しているように見えます。政府(政治家)は次の選挙でより多くの票を獲得するために、各業界、各団体からの要望に応えることに必死ですから、最善策ではなく、妥協案しか出てこないのでしょうし、失敗者のレッテルを貼られ地元の有権者の票を失わないように、リスクを伴う思い切った政策に踏み切れないのでしょう。
それでは、キリスト教会はどうでしょうか。牧師、信徒はユダヤ人の歴史、キリスト者の歴史から学び、同じ失敗を犯さないように真剣に取り組んでいるのでしょうか。教会の中には、聖書的であることよりも、その教会の歴史や伝統を大切にするべきだと考える人もいることでしょう。反対に、外国の教会(宣教師)の影響を受け、それらを積極的に取り入れることを、聖書的であることよりも優先させてしまう教会もあることでしょう。教会が聖書から離れつつあることに警鐘を鳴らす勇気のある人が教会の中にいないとき、または、指導者がこの世の政治家のように八方美人になり、波風を立たせないような姿勢を続ける時に、教会が聖書から離れ、先人と同じ間違いを犯してしまうことがあるのです。
自分は大丈夫だと思っている人が多いのではないでしょうか。しかし、「聖書離れ」は教団・教派を問わずに起きているのです。先日も学びましたが、「自分の教会(教団)は福音主義(聖書的)だから大丈夫!」と思っている人こそ注意が必要です。本当にそうなのか、検証してみる必要があるのではないでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道