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2020年5月18日(月)
テモテへの手紙 第二 3:16-17 16聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。17それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
【ポイント】 ①「自分の信仰の歩みは聖書的である」という勘違いに気づく 恐らく、多くのクリスチャンは「自分の信仰の歩みは聖書的である」と考えていることでしょう。意図的に聖書に反する信仰生活を選ぼうとするクリスチャンはほとんどいないはずだからです。しかし、この思い込みは、現実の状態に蓋をしてしまう危険性があります。例えば、教会でクリスマスを祝うことが聖書的であり、クリスチャンとしての信仰的な行いであると信じているクリスチャンが数多くいることでしょう。残念ながら、「自分の信仰の歩みは聖書的である」または「教会は聖書的なことを行ってくれている」という思い込みのために、多くのクリスチャンは思考停止状態になってしまっているのです。
繰り返し学んでいますが、この責任は牧師にあります。聖書に書かれていることを教える責任を負っている牧師たちが、その責任を全うしていないのです。ですから、私たち牧師はパウロがテモテに命じているように、聖書を神のことばとして正しく伝え、教会にあつまる主にある兄弟姉妹を聖書の真理によって「良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者」と育て、導くことが求められているのです。
私は「クリスマス」を目の敵にしているわけではありません。しかし、自分で聖書を読むことができる現代のクリスチャンは、クリスマスはカトリック教会の伝統の中で発展したイベントであり、聖書の中でイエス様がご自分の誕生日を祝うように命じられている礼典などでは決してないことを知るべきなのです。新約聖書を読めば、誰にでも明らかなことを、明らかにしておくこと、つまり、自分たちが聖書に命令されていない事柄を、教会にとって極めて重要なイベントと捉え、実行しているという現実を共有することが重要なのです。
クリスマスに限らず、何が本当に聖書で行うように教えられている最重要事項で、何がそうでないかと言うことを知ることによって、私たちの信仰の歩みは、大変シンプルになり、本当に大切なことに私たちの時間、エネルギーを集中させることができるのです。これは、新約、旧約聖書で一貫して神様が求められていることなのです。
アモス書 5章21-24節 21わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。22たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。23あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。24公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。
ライフチャーチ 大谷 信道