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2020年5月20日(水)
テモテへの手紙 第二 4:3-4 3というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
【ポイント】 ①キリスト教会の「商業化」の現実を受け入れる 教会は神様のニーズに応える群れなのか、人々のニーズに応える群れなのか、その両方なのか?現代のキリスト教会、そして様々な宗教団体のあり方を見る時に、しっかりと考えなければならないテーマです。
商業の世界(経済界)においては、「人々のニーズに応えること」が成功の条件になっています。人々は自分のニーズが満たされることに喜びを感じますから、「人々のニーズに応えること」は社会貢献などの「善」であるという感覚も浸透しています。
しかし「人々のニーズに応えることは善である」という考え方は、私たちの信仰においては必ずしも「善」でないことを知らなくてはなりません。もちろん、隣人が困っているときに、手を差し伸べることは神様の前で正しいことです。しかし、多くの教会において、「伝道」と「人々のニーズに応える活動」が同義語のようになってしまっている現状があるとしたら、決して看過してはならないのです。つまり、「より多くの人に福音を伝えるためには、より多くの人を教会に集める必要がある。より多くの人を集めるためには人々のニーズに応えるような活動、イベント、魅力的な礼拝(音楽・新しい教え)が有効である。」というような考え方が当然のようになってしまっているのです。
結果として、教会は「神様の愛」に動かされた人々ではなく、「ニーズの満たし(欲求の満たし)」に動機付けされた人々の集まりとなってしまうのです。教会の牧師やスタッフも「商業主義」に陥っているのではないかと言う明確な不安を覚えながら、自分の教会を地域で一番大きい教会にしたい、有名になりたい、尊敬を集めたいというような「自分のニーズの実現」を優先させてしまうことがあるのです。
もちろん、この世とのかかわりを保つことができなければ、キリストの福音を伝えていくことは難しいという現実もあります。しかし、伝道や教会形成の方法について、人の喜ぶサービスを提供するという安易な商業主義に陥ることは、避けなければならないのです。今日の個所から、パウロは自分が関わっている教会で、教会が人を喜ばすような歩みに陥っている姿を見て、警告を与えているのです。そして、この警告は、どの時代のどの地域の教会にも当てはめることができるのです。
ライフチャーチ 大谷 信道