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2022年5月20日(金)
マタイの福音書 25章41-46節 41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。42おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』44そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』46こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
【ポイント】 ①信仰の本質は愛 福音主義のクリスチャンは「信仰による救い(義)」について、聖書からの強い確信を持っています。それは、聖書の記述だけでなく、「律法の実践」や「善行」によって神様の前で完全な者(義人)になる努力を重ねても、不完全な存在である人間は、神様の前で100%正しい者になることは不可能であるという経験によっても知ることができます。もし、完全になれると思っている人がいたとしたら、自分に対しても、神様に対しても不誠実(嘘つき)であると言わざるを得ません。ですから、私たちが自分の罪とその報酬である死から救われるためには、自分以外に自分を救うことができる存在に身を委ねる以外に方法はないのです。それが、イエス・キリストなのです。
ですから、イエス・キリストを信じる者は、今日の聖書の個所を読んでも心配することは何もないのです。自分の行いの中に明らかな失敗があったとしても、その失敗によって救いを奪い去られ、最後の審判で逆転有罪になることはないのです。人間は簡単に律法主義に戻ろうとするので、クリスチャンになった後に罪を犯してしまった時に、心に「お前は罪人だから裁きから逃れられるはずがないだろう」という悪魔(または神様)が語っているような感覚を覚えることがあります。しかし、神様の信仰による救いの約束は決して反故にされることはないのです。信仰による救いという聖書の約束を信じる続けることが大切なのです。
しかし、ここで重要なのは「信仰による救い(義)」の「信仰」について正しく理解することです。例えば、イエス・キリストが救い主であることを事実として受け入れることが「信じる」ということなのでしょうか。「私はイエス・キリストを私の救い主として信じます」と口で告白すれば、それが「信じる」ことになるのでしょうか。毎週教会の礼拝に出席したり、収入の十分の一を正しく計算し、惜しまず捧げていることが「信じる」ことの証しなのでしょうか。答えは、「はい」の部分もありますし、「いいえ」の部分もあります。もし、そのすべてが「神様への愛」から出ている行いであれば、その行いが信仰(神様への愛)の証しと言うことができるでしょう。一方、それらすべてを行っていても、心から神様を愛していないのであれば、神様からは「単なる表面的な行い」と判断されることでしょう。
私は、聖書を読むときに「信仰」とは「愛」であるという結論に達することができると考えます。私たちの日常の行動で、一見すると神様への信仰(愛)とは関係ないと思えるようなものも、すべて信仰(愛)につながっていることを覚えましょう。例えば、イエス様の愛や倫理的な教えを矛盾した活動を平然と行っている企業に勤めたり、投資したりしたとしても、その行動について問われることになるということです。どの政党、政治家を支持したのかと言うような事柄についても、あなたが応援している人物がイエス様の教えと矛盾する価値観を持っているとしたら、なぜそのような人を応援したのかを問われることになるということです。現代の言い方をすれば、私たちの生活のすべてについて、私たちは神様の前での「説明責任」を負っているということが、今日の聖書個所から分かるのです。
愛する神様の前で、自分の生き方について説明することはごく当たり前のことですね。反対に説明責任を負わないで生きているということは、神様を愛さず、蔑ろにしていることにもなるわけです。そのような人が口先で「私はクリスチャンです」とか「私はイエス・キリストを信じている」と告白したとしても、神様の前には何の意味も持たないのです。当然のことながら、神を愛さない者が最後の審判での有罪判決を逃れることはないのです。
ライフチャーチ 大谷信道