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2019年5月24日(金)
マルコによる福音書 7:14-19 14イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。15外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。16{聞く耳のある者は聞きなさい。}」17イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。19そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。 【ポイント】 ①「昔の人のたちの言い伝え」に注意する ーその4ー これまでの議論はパリサイ人と律法学者たちによる「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」(5節)から始まっていました。イエス様は、本題であった「汚れた手」に話を戻します。
ここで重要なポイントは「手をよく洗ってから食事をする」という行為は「律法」が命じていることではなく「昔の人たちの言い伝え」であるということです。さらに「汚れた手」は、「不衛生」という意味だけでなく「神様の前での霊的な汚れ」を意味していましたから、「昔の人たち」は人間の手で勝手な「律法」を作り上げてしまったことになります。言い換えれば、神様が「汚れ」と認識していないことまで「汚れ」としてしまっているのです。これは、神様の権威対する越権行為ということもできます。
そこで、イエス様は神様の目から見て何が本当の汚れなのかについて明らかにしました。イエス様の説明から、神様の前での汚れとは物理的(物質の衛生面)ではなく、神様との関係において、神様からの命令・約束を破ることが「汚れ」であることが分かります。一方、物質的に汚れているものを口にしたとしても、自然に排泄されるだけであるという極めて現実的な説明をされています。つまり、イエス様は非現実的な迷信(宗教的な嘘)を教える方ではなく、ご自分にとっての「霊的現実」「物質的現実」を教えられる方なのです。
具体的な「汚れ」については、明日学びましょう。
ライフチャーチ 大谷信道