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2021年5月6日(木)
ヨハネの手紙第三 1:9-11 9私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。10それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。11愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。
【ポイント】 ①「正しいこと(正義)」と「悪意(意地悪)」は絶対に共存しない。 手紙の中に記されている教会内の出来事は、悪い伝統として後世の教会に受け継がれてしまっているようです。現代の教会でも同じような事例を数多く見ることができるからです。
この問題の深刻さは、当事者に「悪意(意地の悪さ)」の自覚がない、または少ないことです。もちろん、意図的に教会内に異端を持ち込んだり、自分の言うことを聞かない信徒を追い出したり、信徒を連れ去り新しいグループを作ったりするようなケースもあります。しかし、多くの場合は「自分の教会をより良い教会にしたい」という思いから、意見の合わない信徒や牧師と議論になったり、自分の意見に賛同してくれるグループを作ったりしている人が多いようです。
しかし、私たちは神様を侮ってはなりません。自分が正しいと思っている人であっても、そこに1%でも「悪意」「意地悪」が入り込んでいたとしたら、神様の裁きの対象になること覚えておかなければなりません。
さらに、私たちは自分をも欺いてはなりません。もし、私たちがキリストを信じ、聖霊が内在してくださっているのであれば、私たちは心の隅々まで光で照らされているはずですから、自分の心に1%の悪意や意地悪が存在していたとしたら、絶対にそれを見逃すはずはないのです。反対に、聖霊が内在していなければ(イエス様を信じていないのであれば)、罪に対する感覚が鈍感でしょうから、100%自分には悪意はないと信じ込んでしまう人がいるかもしれません。これは、大変恐ろしい現象です。本当の意味でイエス様を信じていないのに、自分がクリスチャンであると思い込んでいる人が教会の中にいることを意味しているからです。
いずれにしても、私たちは教会の中でイエス様の愛の命令に忠実であるのか否かを常に試されているということです。神様が私たちを試しているのではありません。自分の信仰が純粋なものであるのか否かを、教会の交わりの中で確認できるということです。リトマス試験紙が溶液に浸さなければ、酸性・アルカリ性を判別することができないように、私たちは教会の群れに繋がることによって、私たちの信仰が純粋なものであるのか否かを確認することができるのです。批判、さばき心、悪意のある言動、うわさ話などが出てきてしまった時こそ、自分自身、自分の教会の信仰を見つめ直すチャンスでもあるのです。
さばき合いやうわさ話(陰口)が慢性的に行われている教会がたくさんあるようです。それが、大変恐ろしいことであることをすべてのクリスチャンが知るべきではないでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道