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2021年6月1日(火)
マタイの福音書 4:5-7 5すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、6言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」7イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
【ポイント】 ①私たちも試みを受けている その2 今日の個所から、イエス様が受けた試練の別の側面を見ることができます。悪魔だけでなく、イエス様の福音を聞いたすべての人は「おまえが神の子であるのなら、それを分かりやすく証明しろ、そうしたら信じてやろう!」と考えるはずです。そのような意味では、悪魔からの試みは悪意に満ちた罠と言うわけではなく、すべての人の心の声であるともいえるかもしれません。
ですから、「証拠」を求めることは決して悪いことではありません。しかし、「証拠」の求め方には、正しいものと間違ったものがあることは知らなくてはなりません。そして、今日の悪魔が求めている証明の仕方は、間違ったものなのです。もし、イエス様が神殿の頂上から身を投げたときに、御使いがイエス様を受け止めたとします。その出来事を見た人に何が起こるでしょうか。即座に、イエス様を信じ、イエス様を愛し、イエス様に人生を捧げ、イエス様に仕える者となるでしょうか。決してそうではありません。ほとんどの人は、イエス様が神の子か、何か特別な存在であること認識をするでしょう。イエス様を何らかのヒーロー(アイドル)のようにもてはやす人もいることでしょう。しかし、この行為によって、本当の意味でイエス様を愛する者に変えられる人にはほとんどいないでしょう。イエス様が神の子、または神であると頭で認識することと、イエス様を愛することは、全くの別物であることを知らなくてはなりません。ですから、神殿から飛び降り、御使いがキャッチするというような行為は、全く意味のない、無駄な行為であることを知らなくてはなりません。
同じように、神様が全人類が100%分かる形でご自身の姿を現されたとしたら、神様の存在を信じる人は100%になるでしょう。しかし、イエス様が弟子たちに求めたような信仰の決意をする人がどれほどいることでしょうか。
マタイ 16:24-25 24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
冷静に考えれば、奇跡を目の当たりにしただけで、このような決心をする人は少ないであろうことは誰でもが想像できることでしょう。私たちの信仰は、イエス様との個人的な愛の関係、信頼関係が築かれていく中で導かれるものです。
ライフチャーチ 大谷信道