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2022年6月24日(金)
マタイの福音書 27章32-37節 32そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。33ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、34彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。35こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、36そこにすわって、イエスの見張りをした。37また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
【ポイント】 ①イエス様の苦しみを考える 今日の個所から、イエス様は十字架に掛けられる前から既に消耗しきっていたことが分かります。前の晩は寝ていませんし、26節にあった「むち打ち」だけでも、背中の皮と肉がそぎ取られ、大量の出血があったと考える研究者もいるようです。マタイはその点を詳細に記していませんが、当時の読者は十字架刑と一言聞けば、その無残さをリアルに想像できたのだと思います。
しかし、イエス様が受けた苦しみは、肉体的なものだけではありません(それだけで十二分なのですが)。イエス様は精神的にも極めて大きな苦しみを味わっていました。それは「孤独」です。もし、十字架刑に肉体的な苦しみが伴わなかったとしても、イエス様が経験した「孤独」には一切変わりがなかったと思いますし、それは極めて苦しいものなのです。イエス様のそばには誰一人イエス様の重荷を分かち合う存在はありませんでした。クレネ人のシモンは、憔悴しきったイエス様が運べなくなった十字架をローマ兵の命令で運んだだけで、イエス様の苦痛を和らげるために十字架を負ったわけではありませんでした。
当時の十字架刑は、犯罪の抑止のための「見せしめ」だったと思われます。罪を犯した者に極めて大きな苦痛をできるだけ長い時間を与え、見るものに恐怖を与え同じ罪を犯さないように教えるために考案された処刑方法だったわけです。実は、神様にもそのような計画があったのでしょう。神を愛さず、罪の中に死んでいくことの悲惨さ、苦しみをイエス様の十字架を通して教えられているのです。多くの人は肉体的な苦痛に目を向け、神様が地獄で与えられる肉体的な苦痛を想像する人が多いのではないかと思います。しかし、そこには「孤独」というさらに大きな苦しみがあることを想像する必要があります。家族、友人との関係が絶たれ、神様との関係も絶たれた完全な孤独の状態をイエス様の十字架から想像してみましょう。孤独の中で永遠をすごす苦痛を想像してみましょう。
イエス様は肉体の苦しみの見せしめにされたのではなく、神様との愛の関係が絶たれた状態の悲惨さの見せしめになられたのです。
ライフチャーチ 大谷信道