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2020年6月5日(金)
テトスへの手紙 2:11-13 11というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、12私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、13祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
【ポイント】 ①神様の目にはすべてが透明 2テモテ3章5節のことばを思い出しましょう。「5見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」パウロが指摘している当時の教会の問題の一つです。つまり、イエス・キリストを信じると告白している人々の中に、一見すると大変信仰深い人のように見えるけれども、実際には肉の欲に支配されている人々が存在していたということです。
この現象はこの世のあらゆる宗教に見ることができます。信仰熱心の原動力が「個人的な祝福」「ご利益」「自己顕示欲」になっている信者、「お金」「名声(出世)」などになっている教職者は決して少なくありません。残念ながら、キリスト教界も例外ではありません。その証拠をパウロの手紙からも見ることができるわけです。
繰り返し学んでいますが、大切なことは、クリスチャンたち、牧師たちが、正直に自分の心の中を見ることです。自分の信仰熱心さの原動力が、神様への愛、神様へ栄光を帰すこと以外の不純なものが入り込んでいることを正直に認めることです。なぜなら、不純な動機を100%排除することは、自分の努力で罪の性質を克服することなわけですから、それは不可能なのです。大切なことは、自分の中に常に罪の性質、不純な思いが存在していることを神様と人々の前に正直に認めることではないでしょうか。
この点に目をつぶったり、ふたをしてしまうことが、最も不健全で、危険な行為なのです。「神様、神様!」と言いながら、神様を求める目的が自分の欲求の満たしになってしまっていることに気が付かなくなってしまう信徒、「教会の成長」という大義名分の中で、大教会の牧師になること(より多くのお金、名声を得ること)を夢見ている自分の肉的な部分にすら気が付かなくなってしまう牧師は少なくないのです。これは非常に恐ろしい現象ですし、ある種の洗脳のような状態かもしれません。
この状態から目覚めるためには、パウロが今日の個所で命じている通り、イエス様の表れを待ち望み続けることです。つまり、イエス様がすべてを知っておられること、そのイエス様と顔と顔を合わせてお会いする時が来ること、そこで私たちがさばきを受けることを、常に覚えてることです。だれでも、イエス様から「主への忠実さ」について褒められたいですし、「あなたは自分のことばかりに熱心でしたね。」とは言われたくないですね。地上のクリスチャンがこの一点に熱心になったら、キリスト教界だけでなく、社会全体が変えられるのではないでしょうか。
ライフチャーチ 大谷 信道