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2020年7月1日(水)
へブル人への手紙 2:18 18主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
【ポイント】 ①キリストの受難は偶然ではない。 イエス様が「試みを受けて苦しまれた」のは偶然の出来事ではありません。礼拝説教でも確認しましたが、イザヤ53章を見てみましょう。ちょっと長いですが、再度目を通してみましょう。
「 1私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。2彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
このイザヤのことばはイエス様の誕生の700年も前に与えられたものなので、イエス様についての予言ではないと主張する研究者もいるようです。確かに、予言はその時代の人々に必要なことばとして神様から与えられたと考えることは聖書解釈の一般的な考え方であると思いますし、聖書の予言を、自分の生きている時代に当てはめようとする試みは、聖書の文脈を無視することになってしまい、大変危険な聖書の読み方と言わざるを得ません。
それではこの予言はイザヤの時代、またはその直後の時代の誰について語られたのでしょうか?現代のユダヤ教では、この質問に対する一致した見解は無いようです。しかし、イザヤ53章と福音書の両方を読んだ人は誰でも、イザヤ予言がイエスによって成就したと考えるのが一番自然であると感じることでしょう。
だとすると、イエス様は最初から自分が地上に遣わされた目的は、人々の罪の贖いのために、試みに遭い、苦難を受けることであることを知っていたことになります。正しいことを主張して、為政者から迫害を受けた偉人はたくさんいることでしょう。しかし、それらの人々の目的は決して苦しむことではなかったはずです。イエス様は、私たちがイエス様がメシアであり、神の御子であり、神であることを知ることできるために、敢えて苦しみを受けられたのです。
ですから、私たちは安心してイエス様に人生を、たましいを委ねることができるのです。
ライフチャーチ 大谷 信道