デイリーディボーション 7月2日(火)

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デイリーディボーション 7月2日(火)

2019年7月2日(火)
マルコによる福音書 11:11‐17 11こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。12翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。13葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。14イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
【ポイント】 ①イエス様の生きたレッスン 今週の礼拝説教の箇所ですね。 イエス様はイチジクの実がなる季節を知らなかったのでしょうか。絶対にそんなことはあり得ません。パレスチナに住む者であれば小さな子どもでも、イチジクの収穫の季節を知っていたことでしょう。しかも、べタニアを出発したイエス様一行はぺテパゲの付近を歩いていたと思われます。礼拝の中では触れませんでしたが、なんとベテパゲは「未熟なイチジクの家」という意味です。「未熟なイチジクの家」という町を歩きながら、葉の茂ったイチジクの木を見つけたわけです。イエス様はそのいちじくが熟した実をつけていないことをご存知の上で、イチジクの木を用いたレッスンを思いつかれたのでしょう。ベテパゲ(未熟なイチジクの木の家)の近くで聞いた実をつけないイチジクの木についてのレッスンは、弟子たちの記憶に深く刻まれたことでしょう。
13節で、マルコはイエス様と弟子たちは「いちじくの木が遠くに見えた」と記録しています。遠くから見ると、いかにも実をつけていそうに見える「葉の茂った」イチジクの木は、近くから見ると実を実らせていませんでした。それは、遠くに見える美しく、荘厳なエルサレムの街も、中に入ってみると、そこには人々の信仰の実が結んでいないという状況の象徴だったのです。身をつけないいちじくの木は旧約聖書ではイスラエルの民の「不信仰」とその結果としての「神様からの罰」の象徴でした。
神様が好んで、イチジクの木を枯らしたのではありません。神様は収穫を期待していたのに、そこには信仰の結実がなかったのです。「13わたしは彼らを、刈り入れたい。――主の御告げ――しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」(エレミヤ記8:13)これが、まさにイエス様と弟子たちの目の前に見えるエルサレム(イスラエルの民)の現実だったのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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