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2020年7月28日(火)
へブル人への手紙6:4-8 4一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、5神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、6しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。7土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。8しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
【ポイント】 ①救いを失う可能性はあるのか? 日曜礼拝の中でもお話しましたが、結論は「救いを失うことはない」という理解で良いかと思います。もし、信仰を捨ててしまったかのように見える人がいたとしても、神様がその人から救いの約束を取り上げたかどうかを私たち人間が判断することはできません。ですから、たとえ神様が救いを奪い去ることがあったとしても、それが誰に起きているのかを知ることはできないのです。
同じように、私たち人間は、人が確かに救われていることを判断することもできません。私たちは、人々にイエス・キリストの福音を伝え、救いの道に導くことはできますが、その人が(または自分が)本当に救われているかどうかを100%確認することはできません。
と言うことは、信仰を口で告白した人、信仰の証しとしてバプテスマを授けられた人の中には、本当は救われていない人が含まれている可能性もあるということです。別の言い方をすれば、イエス・キリストを愛し、イエス・キリストに従い、イエス・キリストに人生を捧げる決意をすることなく、教会の群れに加わってしまった人がいる可能性があるということです。そのような人が、神様から離れて行ったとしたら、私たちの目には、救いが奪い去られたように見えたり、信仰を捨てたように見えるかもしれないのです。
ですから、大切なことは「信仰告白」「バプテスマ」などという、一回行為、一時点の出来事によってではなく、イエス様との愛の関係によってどのような実を結んでいるのかを見ていくことが大切なのです。もし、イエス様を愛しているのであれば、イエス様のみことばを何よりも大切にしているはずです。イエス様のみことばを離れて、別の福音を教えたりするようなことは絶対にないはずなのです。しかし、この手紙の宛先の教会には、そのような人々がいたこと分かるのです。
イエス・キリストとの愛の関係が結ばれ、愛が深められていく歩み以外に、救いの確信を得ることはできないのです。ですから、「イエス様との愛の関係」 が抜け落ちた救いについての議論は全く無意味なものでもあるのです。
ライフチャーチ 大谷信道