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2020年7月4日(土)
へブル人への手紙 3:5-6 5モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。6しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
【ポイント】 ①イエス様とモーセの決定的な違い その2 ヘブル人への手紙の著者は、モーセは神の家の「しもべ」であり、キリストは神の家を「治める方」であると説明しています。昨日も書きましたが、私たち異邦人クリスチャンにとっては、モーセが「しもべ」であり、キリストが「支配者」であると聞いても、何の抵抗も感じないことでしょう。しかし、ユダヤ教徒、またはユダヤ人でクリスチャンになったばかり人の中には、「ナザレ出身のイエス」が「モーセ」よりも優れた者であるという事実を受け入れるのに難しさを感じる人もいたことでしょう。
しかし、ここでも問題はモーセとキリストの比較だけではありません。6節の「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」という箇所を注意深く受け取ることが重要です。もし、頭でキリストはモーセよりも優れた者であると理解していたとしても、私たちがキリストに「確信」「希望による誇り」を「終わりまでしっかりと持ち続ける」ことをしていなければ、そのような理解は机上の空論になってしまうのです。この手紙の著者の一番のポイントは、ここにあるのです。
さらに、私たちがキリストのみに信頼を置くときに、私たちは「神の家」となるという点にも注目しましょう。つまり、神の家とはモーセが導いた「イスラエルの民」ではなく、キリストを信じる者の群れであるということなのです。これも机上の空論で終わらせてはなりません。人々が愛し合うことによって家(家庭、家族)を形成しているように、キリストを信じる者が、キリストの愛を受け、その愛の応答として互いに愛し合うことによって一つの「家」が形成されるという意味で「神の家」ということば使われているのです。「神の家」は「教会」であり、どちらも「建物」ではなく、キリストを信じ、キリストの愛を実践することによって建て上げられる「群れ」を指しているのです。
あなたは、キリストを一番にしていますか? そして「神の家」を大切にしていますか?
ライフチャーチ 大谷 信道