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2021年8月18日(水)
マタイの福音書 8:16-17 16夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。17これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
【ポイント】 ①イエス様の癒しの目的を考える 今日の個所には、イエス様の癒しの別の目的が記されています。今日の個所で引用されているイザヤ書53章は、メシアについて預言と言うこともできますので、イエス様の病の癒しが、ご自身がメシアであることの証明であることには間違いありません。しかし、今日の個所(イザヤ53章)からは、メシアは「愛」と「あわれみ」に満ちたものであることが分かります。イエス様は自分がメシアであることを証明するために、仕方なく、義務として病の癒しを行われていたのではないということ、癒しや愛とあわれみをもって行われていたことが分かるのです。別の言い方をすれば、イエス様が病の癒しを嫌々行っていたとしたら、イエス様の姿からイザヤ書53章に記されている苦難の僕の姿を連想することはなかったわけです。つまり、人々はイエスはメシアではないと結論付けてい他ことでしょう。
それでは、イエス様は地上で病に苦しむ者の病気をすべて癒されることを目的とされていたのでしょうか。先に学んだ通り、そうではありません。その真の目的は、ご自身が旧約聖書に預言されているメシア、救い主であることを証明することです。このポイントをしっかりと理解することが、現代に生きる私たちにとって極めて重要になります。
現代に生きる私たちが病に苦しむときに、神様に癒しを求めれば必ず癒されるのでしょうか? 答えは「いいえ」です。イエス様はご自身がメシアであることをすでに証明されましたら、再び病の癒しによってそれを証明する必要はありません。
しかし、イエス様は愛とあわれみに満ちた方ですから、私たちの病の苦しみを無視したり、放置したりすることはありません。とはいえ、私たちは病の癒しの祈りによって、病人が癒されるケースもあれば、癒されないケースもあることを知っています。癒されなかったときには、「祈り方が悪かったのか?」「癒しの賜物がある人に頼むべきだったのか?」「悔い改めていない罪があったのか?」「信仰が足りなかったのか?」などと、間違った方向に考えが流されていくことがあります。ここで知るべきなのは、あなたが癒されても、癒されなくても、神様はあなたのことを変わらずに愛されていることです。イエス様が与えてくださった救いとは、病にかからない事、長生きできること、地上で健康で豊かな生活を送ることではありません。イエス様の救いとは、私たちがイエス様の御国で、イエス様の愛の関係の中で永遠を過ごすことです。
パウロの地上(肉体)の死生観を見てみましょう。
ピリピ人への手紙 1章21-24節 21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。22しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。23私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。24しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。
もしパウロが不治の病にかかっていたとしたら、彼の祈りはこうなっていたことでしょう。「主よ、地上においてあなたの使命を全うするために病をいやしてください。」パウロの地上で生きる理由は、神様から与えられた使命を続けることでした。そして、本心は、「世を去ってキリストとともにいること」でした。私たちクリスチャンが、「生きることはキリスト、死ぬことも益です。」というパウロの死生観を共有していないと、「癒し」についても、この世的、カルト宗教的な理解になってしまうかもしれません。
ライフチャーチ 大谷 信道