デイリーディボーション 8月19日(水)

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デイリーディボーション 8月19日(水)

2020年8月19日(水)
へブル人への手紙 10:1-7 1律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。2もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。3ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。4雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。5ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。6あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。7そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
【ポイント】 ①「影」ではなく「実物」を大切にして生きる。 この部分だけを聞くと「旧約聖書は不必要だ」とか「律法は無意味だ」などと感じてしまう人もいることでしょう。しかし、もし神様が人間が理解できるように、少しずつご自身の計画について啓示してきたと考えたらどうでしょうか。小学校1年生に哲学書を読ませたり、高等数学を教えたりすることはありません。なぜなら、それらを理解するためには文字や数字を習うことから始めなければならないからです。同じように、神様は人間に、何が神様の前で正しいことなのか、何が聖いことなのかを少しずつ教えるという方法を選ばれたのではないでしょうか。事実、律法を与えられたイスラエルの民は、律法に記されている神様の真意(御心)をすぐに理解したり、実践できなかったことは旧約聖書を見れば明らかです。さらに、この世的な価値観を元にして、過去百年の人類の歴史を振り返ってみても、人類が良い方向に進んでいないこと、間違いを繰り返していることは明らかですね。人間を造ったのは神様ですから、神様は人間の愚かさを良く知った上で、忍耐強く人類を導かれているのではないでしょうか。そういう視点からすると、律法は神様の計画の一部であって、決して完成形ではなかったことが分かります。
ただ、これは人類の全体像であって、個別に見れば、キリストがこの世に遣わされる前の「影」の時代の中にも、「実物」を捉え、信仰に生きた人々が大勢いたことを忘れてはなりません。後の11章では、そのような信仰に生きた人々についての説明がなされます。同時に、キリストが与えられた後の時代であっても、形骸化した「宗教」の中に生きている人は、依然として「影」の中に生きていることになります。キリスト教からみた、ユダヤ教はそのように見える部分がありますし、私たちキリスト教の中にも、律法主義であったり、マリア崇拝、聖人崇拝、天使崇拝であったり、牧師崇拝のような、今日の個所で言えば「影」のことばかりに熱心になっているクリスチャンが大勢いるのです。そのような意味では、時代を越えて、純粋に神様を愛し、神様の御子を求めて生きる人は常にいたし、形骸化した宗教を本物の信仰だと勘違いして生きている人も常に存在しているのです。
ですから、私たちは、自分のこととして、自分は「影」と「実物」のどちらを大切にして生きているのかを常に確認していくことが大切なのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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