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2019年8月20日(火)
マルコの福音書 14:47-50 47そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。48イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。49わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」50すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
【ポイント】 ① ユダについて深く考える その3 ユダはイエス様を金で売り渡すという大変なことをしてしまいました。しかし、50節には「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」と記されている通り、他のでしたちも何もすることができなかったのです。一方、ヨハネの福音書18章8節には「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」と、イエス様が弟子たちを逃がしたことが記録されています。弟子たち思いとしては、たとえイエス様のことばに従って逃げたとしても、結果としてイエス様を見捨てることになってしまったという思いが心の中にあったのでしょう。
繰り返しになりますが、この弟子たちが経験した「罪の自覚」と「悔い改め」が現代に生きる私たちにとっても極めて重要なのです。つまり、確かにイエス様が十字架で死なれることは神様の計画であったわけですが、十字架は、神様が弟子たちをロボットのように操作したり、事前に脳をプラグラムして起きたのではなく、弟子たちの自由な意思が働く環境の中で実現したのです。弟子たちは、自らの自由な意思のなかで、イエス様を裏切ったり、見捨てることを選択したのです。イエス様も、弟子たちが間違った選択をしてしまうことをすべてご存知の上で、弟子たち(人々)が罪を犯し十字架刑が実現することを許されたのです。つまり、イエス様は弟子たちを罠に仕掛けたわけではなく、彼らに本当の意味での「罪の自覚」と「悔い改め」の機会を与えてくださったのです。この経験は弟子たち、そしてイエス様を信じるすべての人が、傲慢になったり、他者をさばいたりせず、イエス様の戒めに従い、隣人を愛し、赦し、受け入れていくために不可欠なものなのです。
私たちクリスチャンは、イエス様に赦されているからこそ、自分が罪深いものであることを認め、その自覚を持ち続けることができるのです。
ヨハネの福音書 8章7節 「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」
ライフチャーチ 大谷信道