デイリーディボーション 8月21日(水)

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デイリーディボーション 8月21日(水)

2019年8月21日(水)
マルコの福音書 14:51-52 51ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。52すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。
【ポイント】 ① 失敗を隠さない理由 今日の箇所はマルコ以外の福音書にはない記述なので、この青年はマルコ自身ではないかと考える研究者が多くいます。しかし、決定的な証拠はありません。
この青年がマルコだと仮定して考えてみると、マルコは自分の非常に恥ずかしい失敗の姿をあえて記録したことになります。おそらく、イエス様を逮捕した人々は、ついてきたマルコがイエス様の弟子であることに気づき、マルコの服の一部をつかみ、捕らえようとしたのでしょう。マルコは捕まらないように必死にもがき、結果として服がはぎ取られるような形になってしまったのでしょう。まるで喜劇の一場面のようにも見えますね。マルコはこのような恥ずかしい姿が後世の人々に語り継がれることを選んだのです。
ここにマルコの信仰の純粋さを見ることができます。本当の悔い改めを経験したマルコは、自分が「裸で逃げたバカな弟子」と呼ばれること、「失敗者」としてのレッテルを貼られて生きることを全く気にしていなかったのです。パウロが自分を「罪人のかしら」と呼んでいるのと同じですね。真の悔い改めと信仰のきっかけになった経験は、彼の信仰の証しでもあったのでしょう。
イエス様を見捨てたにもかかわらず、イエス様には見捨てられなかった経験を通して、弟子たちはイエス様の愛、憐れみ、赦しを、観念、思想などとしてではなく、肌で感じることができたのでしょう。まさに放蕩息子の経験と同じですね。神様の愛については、失敗しないとわからないこと、失敗したからこそわかることがあるということですね。
ライフチャーチ 大谷信道


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