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2021年8月24日(火)
マタイの福音書 8:23-27 23イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。24すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。25弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」26イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。27人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
【ポイント】 ①弟子を育てられるイエス様 この個所の「大暴風」を「人生の嵐」に例える方が多くいらっしゃいます。100%間違った解釈(適用)とは言いませんが、それでイエス様のメッセージが正確に伝えられているかは疑問です。なぜなら、27節に、極めて重要な問題提起を見ることができるからです。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」つまり、この個所で最も重要なポイント(適用)は「イエス様は私の人生の嵐も治めてくれるのか?」ではなく、「イエスは何者なのか?」だからです。イエス様が本当に教えたいポイントはそこにあるのです。「ご利益」「ありがたい教え」など、結局のところ「自分のため」の何かを探しているだけの人は「イエス様が何者であるのか」には興味を持たず、イエス様が何者であっても、自分の求めるものを与えてくれれば、それで満足するという悲しい現実があります。
それでは「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」という質問の答えは何なのでしょうか。マタイは、この答えをあえて記すことなく、読者に考えさせることを選択していますが、これは、イエス様が弟子たちを教えられた方法と同じなのです。自分が神であると口にすることは誰でもできますし、実際にそうしている新興宗教の教祖はたくさんいることでしょう。しかし、イエス様は安易に正解を出さずに、弟子た自分で考える力をつけさせ、同時に客観的な証拠に基づく判断をさせようとされたのでしょう。
実は、現代に生きる私たちも当時の弟子と同じ力をつけることが求められているのです。つまり、私たちは、誰かから強要されてでも、洗脳されてでもなく、客観的な証拠に基づき、自分たちの理性を用い、イエスが何者であるのかという結論を導き出すことが求められているのです。そして、このような方法でたどり着いた結論は揺らされることがないのです。
大暴風を静めることができる存在とは何者だと思いますか?
ライフチャーチ 大谷 信道