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2023年8月29日(火)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 1:1-3 1神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、2コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。3私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
①パウロの手紙執筆の理由 ローマ人への手紙に続いて、聖書の順番通りコリント人への手紙を取り上げることにしました。実は、デイリーディボーションで取り上げるのはこれで3度目です。前回、前々回と全く違うことを書いてしまうかもしれませんが、取り上げるときの教会の様子、社会の様子などが違いますので、自然と毎回内容は違うものになってしまうのです。
特に、今回はローマ人の手紙に続き、パウロがイエス様から受け取った「福音」、特に「恵み」について正しく理解することに重点を置きたいと思っています。その理由は、現代の教会の様子(個人的な経験を含む)を概観するときに、そして過去のキリスト教会の歩みを振り返るときに、私たちクリスチャン、そして牧師たちの中に「イエス様の福音」「恵み」について、イエス様、そしてその福音を受けたパウロが伝えようとしていたものとは違う教え、メッセージを発信している人たちが少なくないからです。
パウロがこの手紙を通して伝えたいこと、そしてそれが正確に理解され、実践されることによって何が起こるとを期待していたのか、何を祈っていたのかは、3節に「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」とはっきりと記されています。このことばをパウロの手紙に一般的にみられる挨拶だと解説している注解書が多いと思います。しかし、私は、決してそうではないと考えます。なぜなら、例えばイエス様はヨハネの福音書14章で「27わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と教えられています。イエス様の福音について、救いについていくらでも難しく説明することが可能です。しかし、私たちがどのような説明を受けたとしても、どのように難しい神学的な議論を理解していたとしても、私たちの心に、イエス様が本来与えようとされていた「平和(平安)」が無ければ、それらは空虚なものになってしまうからです。
それでは、どうしたら私たちは本当の平安の中に生きることができるのでしょうか。前のローマ人への手紙での繰り返し学びましたが、私たちに本当の「平和(平安)」を与えることができるのは「恵み」だけなのです。イエス・キリストの福音の中に「恵み」以外の不純物が混ざるときに、その不純物が私たちの心の中に不安を作り出すからです。その代表は「律法主義(律法の行いによって義とされる)」という古い教えです。パウロは「律法の行ない」を徹底的に実践し、それによって義とされることは不可能であるという結論に達しました。しかし、多くのクリスチャンは、パウロほど死ぬ気で律法(律法的な教え)を実践していないですし、パウロほど自分の罪深さ、不完全さに敏感ではないので、律法を守っている気になってしまったり、頑張っている自分に充実感を覚えてしまうのです。ですから、知らず知らずのうちに教会の中に、個人的な感覚の中に律法主義が入り込んでしまうのです。しかし、繰り返しになりますが、その中に本当の平安はないのです。
もし、パウロから見て、各教会のクリスチャンたちが恵みの中に生き、日々平安の内に歩んでいたとしたら、パウロは手紙を書く必要はなかったことでしょう。しかし、その状況に様々な違いがあったと思われますが、多くの教会のクリスチャンたちが恵みの福音から離れ、不安、不和に陥っている姿をパウロは見ていたわけです。
ですから、現代に生きる私たちに対するパウロの祈りも「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」と変わることはないのです。
ライフチャーチ 大谷 信道