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2023年8月31日(木)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 1:10-12 10さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。11実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、12あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。
①教会における分裂や分派の本当の理由を知る
コリントの教会の中で起きていた問題でパウロが1番最初に取り上げたのが「分裂・分派」の問題です。この問題は人間が集まれば必ず起こるものです。その理由は簡単です。人間は誰でも自分の考えに賛同してくれる人が自分の味方であり、そうでない人は敵という感覚を持つ傾向があるからです。その他にも、人間の集団のなかでの分裂や分派の原因の説明は様々あることでしょう。
しかし、ここでの真の問題は「分裂・分派」ではないと思うのです。12節の「12あなたがたはめいめいに、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケパに』『私はキリストにつく』と言っている」ということばから、私は、コリント教会での問題はクリスチャンたちが、いわゆる「教祖」を求めていたことだ推察します。人々に問題の愚かさを気付かせるためのパウロの独特の皮肉かもしれないのですが、「パウロ、アポロ、ケパ(ペテロ)」と「キリスト」が同列に置かれていることに注意が必要です。もちろん、私たちはキリストを主と信じる「クリスチャン」ですから、「キリストにつく」のが当然なのですが、コリント教会の中には、同じような感覚で人間であるパウロ、アポロ、ペテロなどを信奉してしまう人々がいたということです。ですから、これは分裂・分派の問題以前に「信仰」の根幹にかかわる問題だったのです。
実は、この問題は決して他人事ではないのです。いわゆる今日の教会で見ることができる「牧師崇拝」という現象とコリント教会の分裂・分派はとてもよく似ているからです。信仰の中心が「キリスト」ではなく「牧師」とのつながりや関係性が中心になってしまっている現象ですね。牧師が新興宗教の教祖のようになってしまうわけです。この問題の厄介なところは、「牧師崇拝」に陥ってしまっているクリスチャンのほとんどが、その事実に気が付いていないことです。頭の中では「私の主はキリストです!」と理解し、そこで思考が停止しているので、自分が「キリスト以外につく」状態に陥っているなどと決してないと思い込んでいるのです。しかし、実際には、牧師によって通う教会を決めたり、その牧師のメッセージを聞くことが礼拝の一番大切で楽しみになってしまっていたり、牧師から褒められたい、認められたいという思いから熱心に奉仕に取り組んでいたり、特定の牧師に手を置いて祈ってもらうとより多くの祝福を得ることができると考えたりするクリスチャンは少なくないのです。
一方、牧師やリーダーに対して強い不平や不満を持っていたり、実際に批判を口にする人もいます。実はこの状態も「牧師崇拝」なのです。つまり、自分の中に理想牧師という偶像があって、自分の教会の牧師がその偶像と一致しないことに不平や不満を覚えるのです。ある意味、そのような人は「私は頭の中の理想の牧師につく!」といって、分裂や分派を引き起こしているのと同じなのです。問題は、目には見えないけれども、まことの神であり、真の牧者であるイエス・キリストに結びつくことをせず、目に見える牧師、または自分の作り出した理想の牧師像と結びつこうとしてしまうことなのです。
クリスチャンになる前に、様々な宗教、新興宗教から、宗教のイメージが刷り込まれてしまっているコリントに暮らす異邦人、そして現代の日本に暮らす私たちは、教会の牧師が「教祖(的)」であることを期待したり、そのことに違和感を覚えない可能性が高いのではないかと思います。自分の中にそのような牧師やリーダーを求めている思いがあるかどうか、思考を停止させず、しっかりと考えてみましょう。
ライフチャーチ 大谷 信道