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2020年9月17日(木)
へブル人への手紙 12:7-10 7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。9さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
【ポイント】 ①何の訓練なのか? 今日の個所の天の父の「訓練・懲らしめ」の目的・ゴールが分からなければ、全体の意味を理解することができないでしょう。それを知る方法は簡単ですね。これまで何度となく学んできていますね。そうです、文脈を見ることです。12章の最初をもう一度見てみましょう。「1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」つまり、私たちがイエス・キリストから目を離し、別の人間の肉欲に訴えてくる、一見すると魅力的に思えるような別の教えに心を奪われることがないように、イエス・キリストだけに目を留めておくことが、この訓練・懲らしめの目的です。
訓練ということばから、何かしらの修行や鍛錬を想像する人もいると思いますが、文脈はそのような理解を許しません。迫害であったり、別の偽の福音が教会の中に入り込んでくるという大変な状況は、ある意味で、私たちクリスチャンの神様に対する愛の純粋さが試される試練でもあるのです。しかし、神様は私たちに無意味に試練を与えているのではなく、私たちの成熟したクリスチャンとして育て、簡単に他の教えに浮気してしまうような幼稚な心を強くされたいと思われているのです。落伍者、失格者を出すことが目的ではなく、信仰を育てることが目的なのです。
ライフチャーチ 大谷信道