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2021年9月23日(木)
マタイの福音書 10:1-4 5イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。6イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。7行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
【ポイント】 ①イエス様の戦略を理解する その2 9章37-38節の「・・・収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」という箇所を思い出しましょう。一番の「収穫」が期待できるのは、バプテスマのヨハネがイエス様のために準備をしていた「ユダヤ人コミュニティー」でした。ですから、イエス様が「異邦人(ユダヤ人以外)」の住んでいる地域に行かないように教えたのは差別でも何でもありません。イエス様は弟子たちをより多くの収穫が期待できる場所へと送り出したのです。イエス様はどの地域に、どの順番で福音を伝えるのかと言うことについて具体的な戦略をもっておられたということなのです。
繰り返しになりますが、イエス様が伝えられたのは、天の父の愛です。キリスト教という宗教を伝えたのでも、天国の行き方を教えたのでも、罪の赦しの方法を教えたのでも、地上で健康で豊かな人生を得る方法を伝えたのでもありません。病気の癒し、悪霊の追い出しなどは、神様の愛の証明であり、イエス様が神の御子(つまり神)としての権威を持っているおり、イエス様のことばが神のことばであることの証明なのです。
例えば、ヨハネの福音書3章16節を見てみましょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」イエス様と弟子たちは、イエス様の福音が真理であることを、様々な業によって証明されているわけです。それでは、イエス様のことばが真理であるとしたら、私たちは、その真理についてどのように対応すべきなのでしょうか。多くの伝道者は「イエス・キリストを信じましょう。」と「信じる」という応答をするように促します。しかし、この促しは、聖書の「信じる」という特殊なことばの意味を正しく理解していない人には正確に伝わらないを思っています(「はい」という返事を誘導したいという間違った意図があれば別ですが)。ヨハネ3章16節のみことばに対する応答を普通に考えれば、「あなたは神様を愛しますか?」となるはずです。
誰かから、「あなたを愛しています!」と告白されたときに、自分もその相手を愛している場合は「私もあなたを愛しています!」と応答することでしょう。しかし、そうでない場合は「ありがとう、気持ちは嬉しいけど」「あなたの私に対する思いは理解したけど」と心の中で思うはずです。もし、そこに第3者がいて、「あなたは、この人のあなたに対する愛を信じないのですか?」と聞かれたら「はい、信じます。」と答えることでしょう。しかし、この「はい」は、決して「私もその人を愛しています。」という意味ではないことは、誰でもが分かると思います。
10章の後半でイエス様はこの点について、極めて明確に教えられています。「37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
私たちが伝道する時に、相手に「イエス様を愛しますか?」という質問を用いないとしたら、イエス様のみことばに不誠実であることを知らなくてはなりません。同時に、聖書も知らず、メシアも信じていない異邦人の地で、伝道を行うときに、一足飛びに「イエス様を愛しますか?」という質問ができる段階まで到達できないことも理解できますね。ですから、イエス様は第一段階として、弟子たちをユダヤ人コミュニティーに送り出したわけです。
ライフチャーチ 大谷信道