デイリーディボーション 9月6日(火)

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デイリーディボーション 9月6日(火)

2022年9月6日(火)
ローマ人への手紙 1章24-26節 24それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。25それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。26こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
【ポイント】 ①「ジェンダー・性」の問題の本質を理解する 性の多様化が聖書の教えに反すると考えるクリスチャンが多くいます。私自身もそのように考えます。創世記1章28節で男女を創造された神様は「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と言われたからです。神様は男と女が子孫を増やしていくことができる存在として、それを促す「生殖本能」という機能も組み込んで男女を造られたのです。これには議論の余地がないと考えます。
さらに、神様は生殖本能に倫理的な秩序(制限)を与えられました。それは、創世記2章24節からも分かります。「24それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」つまり、生殖本能は愛する夫婦のために用いられるべきものであるという制限です。これは、神様に似たものとして造られたゆえの人間の特徴であり、他のすべての動物との違いなのです。
私たちクリスチャンが「ジェンダー・性」について考えるときには、この両方を同時に考える必要があります。つまり、「生殖本能」を子孫を残すため以外の目的で利用すること、そして、結婚相手以外の相手に用いることは、神様の御心に反する「罪」であるということです。
ここで、神様の最終的な啓示であるイエス様の「生殖本能」についての教えをマタイ5章28節から見てみましょう。「28しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」つまり、実際の行為に至ってなくても、結婚関係にある相手以外の誰かに対して生殖本能が反応するだけでも「姦淫」と同じであるというのです。これが何を意味しているか分かるでしょうか。神様の前では、ほとんどの人が「姦淫」の罪を犯しているということなのです。
つまり、私たちクリスチャンが「ジェンダー・性」の問題について、あれこれ言う前に、自分が「姦淫を犯している者」であるという自覚、共通理解を持つべきなのです。イエス様はヨハネ8章で姦淫の罪で連れてこられた女性をイエス様のところに連れてこられたときに「7けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」と言われました。神様の前で自分の罪について正直になったときに、人間は他者の罪を非難したり、さばいたりすることができなくなるのです。
ですから、「性の多様性などという考え方は罪だ!」と声高に唱える人は、その前に、自分も同じ罪人であると理解するべきなのです。さらに、生殖本能を自分の欲求(情欲)を満たすための道具として悪用する場合は、異性愛者であろうが、同性愛者であろうが、神様の前で罪を犯すことになるのです。
先に引用したヨハネ8章で、イエス様は女性に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。ですから、神様が私たちに罪を犯さずに生きて行くことを求められていることは明らかです。しかし、私たちが罪を一切犯さずに生きて行くことは不可能です。もし可能であったのであれば、イエス様の十字架は不必要、無意味であったことになってしまいます。
今日の個所にある通り、神様を愛さず、御心を完全に無視し、「心の欲望のままに」生きている人は、異性愛者であっても、同性愛者であっても罪に定められます。しかし、誘惑に負け罪を犯したとしても、自分の罪を自覚し、罪と戦い、悔い改めながら、神様を愛し、神様の御心を求め続ける者は、それが異性愛者であろうが、同性愛者であろうが、神様はあわれみ、導いてくださるのではないでしょうか。つまり、「性の多様性(性の同一性)」は問題の本質ではないのです。
自分の肉体的な性別と心の性別が一致していても、一致していなくても、互いにキリストの愛をもって愛し合い、生涯連れ添っていくことができるのです。確かに、子孫を残していくという神様の計画には応えられないかもしれません。それでは、性の多様性を否定しているクリスチャンの方々は、子どもを願いながらかなわない異性の夫婦を同性愛の問題と同じように見ているでしょうか。見ていませんね。しかし、そのような人の聖書理解には明らかな矛盾があることになります。問題の本質を見失うと、そのような状況に陥ってしまうのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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