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2020年9月7日(月)
へブル人への手紙 11:13 13これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
【ポイント】 ①「信仰の人々」として死ぬ 私たちクリスチャンは、旧約聖書の人々が見ることができなかった本当の「救い」をイエス・キリストによって見ることができました。つまり、創世記12章で神様がアブラハムに約束された「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」という約束が、キリストによって成就されたことを私たちは知っているのです。
しかし、それは今日の個所にある「約束のものを手に入れる」こととは100%同じではありません。なぜなら、クリスチャンである私たちも、依然として地上では旅人として、寄留者として生きているからです。私たちが属しているのは、堕落し、必ず終わりを迎える地上ではなく、神様が用意されている永遠の都だからです。
そのような意味では、私たちクリスチャンも、旧約の信仰に生きた人々と同じ信仰が求められているということです。つまり、私たちは、やがて与えられる完全な救いと贖いという約束について「はるかにそれを見て喜び迎え」生きることが求められているということです。ですので、ヘブル書11章は、信仰に生きた人々の例をたくさん挙げることによって、キリストを信じる私たちも、彼らと同じように、最後の最後までキリストの約束に希望を置いて生きることができるという、大きな励まし、証しなのです。
同時に、これらの個所は「地上においての祝福」「特定の国の祝福」ばかりが強調されている現代のキリスト教に対する警告でもあるのです。アブラハムに与えられた「すべての民族の祝福」の約束は、イエス・キリストによって既に成就しています。この約束の成就のために、神様はアブラハムの子孫であるイスラエルの民を用い、祝福されました。しかし、この約束が成就した今、神様は特定の民族、特定の国を祝福する必要があるでしょうか。私たちの人間的な思いとして「神様、日本を祝福してください!」という願いを持ってしまうことはあるかと思います。しかし、本当に神様が人間が造ったある国を、他の国に優先して祝福する理由などあるのでしょうか。アメリカにおいては「God bless America・神よアメリカを祝福したまえ」という表現が当たり前のように使われていますが、私たちはそれが、ある意味異常な願いであり、全く聖書的な祈りではないことを知らなくてはなりません。そして、私たち日本人クリスチャンも、その間違った感覚を真似する必要もないことを知らなくてはならないのです。
なぜなら、地上では私たちは、旅人であり、外国人であり、寄留者だからです。
ライフチャーチ 大谷信道