デイリーディボーション 1月26日(土)

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デイリーディボーション 1月26日(土)

2013年1月26日(土)

ヨハネの福音書 18:25-27
25一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない」と言った。26大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」27それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。

【ポイント】
マタイの記述を見てみましょう。「74すると彼は、『そんな人は知らない』と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。75そこでペテロは、『鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います』とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」(マタイ26章)

「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と告白しイエス様と一緒に死ぬ覚悟までしていたはずのペテロ、弟子たちはイエス様の逮捕によって、みな逃げてしまいました。それでもペテロは遠くに逃げることはせず、大きな危険を犯しイエス様が尋問を受けている屋敷の外にいました。この行為には大変大きな勇気が必要であったことは言うまでもありません。しかし、ペテロの勇気にも限界が訪れます。なんと、自分が耳を切り落としまった者の親族が、ペテロの顔を覚えていたのです。イエス様の「剣を取る者はみな剣で滅びます。」ということばの通り、剣によって傷つけられた側の人間が、剣をもってその行為に報復するのは当然の結末です。ペテロは、ここで捕らえられれば、もはや言い逃れはできないことも理解したでしょう。自分はイエスの弟子でないと行って逃げてしまいました。マタイはその後にペテロが「激しく泣いた。」と記録しています。

この場面を「自分が迫害をうけたら・・・。」と迫害の際の自分の行動に適用することができるでしょう。しかし、もう少し基本的なポイントに立ち返りましょう。ペテロは何を否定したのでしょうか。「そんなものではない」、「そんな人はしらない。」というペテロのことばは何を意味していたのでしょうか。イエスという人物について何らかの情報を知っていることを否定したのでしょうか。それとも、イエスという人物と知り合いであることを否定したのでしょうか。そうではありません。イエス様との関係を否定したのです。自分はイエスなどという人間とは全く関係のない者であると宣言したのです。

反対に言えば、イエスが救い主である、神の子であるという知識、情報を知っていたとしても、それだけではイエス様を信じることにはならないのです。イエス様を信じるとは、イエス様を信頼し、どのようなことがあっても最後まで従い続けることです。どのような迫害、苦難があっても最後まで信頼し続ける決心をすることが、信仰決心なのです。「イエス様を信じれば天国にいける」という方程式、原理原則を信じることではありません。

イエス様はペテロ、他の弟子たち、そして私たちの弱さもよくご存知です。事が起こる前にイエス様はこのように言われました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)
このイエス様の祈りは私たちにも向けられています。単なる祈りではなく、私たちが信仰を保ち、最後までイエス様に従い続けることはイエス様の御心なのです。

イエス様の励ましの言葉に耳をかたむけましょう。

【祈り】
《マタイ13章》
19御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
20また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
21しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
22また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
23ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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