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2018年1月13日(土)
【通読】
ローマ人への手紙 3:24-26
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
【ポイント】
①「救い」「罪の贖い/赦し」「神様の義」は商品ではない
24節の「価なし」ということばを誤解している人はいないでしょうか。「価なし」は「無料」という意味ではあるのですが、「神様の義」は決して商品のようなものではありません。日本では、例えば破魔矢にしても、お守りにしても、商品として販売され、人々はお金を払ってご利益を購入することが当たり前になっています。しかし、「神様の恵み」はそれらの開運グッズを無料で配るのとは全く意味が違います。「価なし」ということばは「無料」という意味ではなく、神様の恵みは商売のようなギブ・アンド・テイクの関係の中で与えられるものではないという意味なのです。
「価なし」とは他人とのギブ・アンド・テイクの関係ではなく、親子に見ることができる金銭、損得が介在しない愛の関係を意味しているのです。自分の自立前の子どもに、家賃、食費、光熱費などを請求する親はいません。親と子の間に愛の関係が成立しているからです。ですから、子どもは「僕の家では、食事も宿泊も無料なんだ。ラッキー!」とは言わないのです。同じように「キリスト教では天国への切符は無料でもらえるんだよ。ラッキー!」とはならないのです。私たちが喜ぶべきポイントは「無料」であることではなく、神様が私たちをこどもとして受け入れてくださることなのです。
②「価なし」は決して「当然」ではない
子どもが健全に成長すると、親が自分にしてくれたことについて、それまで「当然」だと思っていたことが「感謝」に変わっていきます。別の言い方をすれば、自分の親に対して心からの感謝を覚えるようになってきたとしたら、それは人間としての成長のサインでもあるわけです。反対に言えば、親に対する感謝の思いが薄いことは、人間として未熟である印なのです。
クリスチャンの成長も同じです。救いが「価なし」であるために、神様の私たちに対する愛、恵みが当然になってしまうことがあるのです。むしろ、救いのために何千万円も払っていれば、罪を赦され、救いが与えられ、神の子とされた価値を実感できるかもしれません。「価なし」であるがゆえに、与えられている恵みに対する喜び、感謝を感じることができない人がいるのです。しかし、先の例の通り、それはクリスチャンとしての未熟さゆえのことなのです。
私たちがクリスチャンとして成長すると、自分の罪深さ、汚れの深刻さをさらに深く実感することになります。自分の罪の深刻さに気づけば気づくほど、罪の贖い、赦しの価値の大きさに気付いていくのです。そして、神様がどれほど大きな犠牲を払ってくださったのかを実感するようになるのです。
ですから、自分の不信仰、未熟さに落ち込んでいる人は、実はクリスチャンとして正常な成長の中にあるのです。事実、パウロは自分を「私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:15)と認識していました。しかし、自分のダメさ加減を知れば知るほど、神様の恵みの大きさを実感していたのです。ここにこそクリスチャンとしての真の喜びがあるのです。
ライフチャーチ
大谷信道