デイリーディボーション 10月26日(土)

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デイリーディボーション 10月26日(土)

2019年10月26日(土)
ピリピ人への手紙  4:8-9 8最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。9あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
【ポイント】 ①「自然に」と「意識的に」の両方を大切にする 私たちが御霊(みことば)の導きに従って生きれば、8節に記されているような倫理的な歩みに「自然に」導かれていくはずです。いつも引用するガラテヤ5章の御霊の実を見れば明らかですね。「22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
しかし、聖霊(みことば)の導きを求めているはずである私たちクリスチャンの全員が8節のような生き方を「自然に」実践できているかというと、必ずしもそうではありません。ということは、聖霊の導きを明確に理解していなくても「意識的に」倫理的な生き方に自分を従わせていくことも大切になるのです。
実は、旧約聖書の律法の役割はそこにあったのです。神様の導きに自然と身を委ね、御心を選んでいくことができる生き方は、ある意味「成熟した大人」の歩みなのです。残念ながら、この成熟に達していない人は「養育係」によって、何をすべきか、何をするべきでないかを命令される必要があったのです。「24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3章)ですから、パウロもローマ7章でこのように告白しているのです。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『7むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」
同じように、私たちクリスチャンにも戒めが与えられています。今日のパウロのことばも「戒め」の具体的な例なのです。「34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13章) しかし、この戒めは私たちが神様の前で「義」と認められるための手段ではありません。イエス・キリストを愛する信仰によって、私たちを子どもとしてくださった天の父への愛の応答なのです。
つまり、今日の8節のパウロの命令も、個人の倫理的な正しさの命令ではなく、互いに愛し合いなさいという命令の具体的な行動規範なのです。あくまでもパウロが語っているのは、キリストから与えられている相互愛の命令であり、主にある一致の命令なのです。
ですから、キリストの相互愛の命令に従う私たちは、天の父の命令に従っていることになり、天の父が喜ばれている確信を得、心に平安を持つことができるのです。「10もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15章)
ライフチャーチ 大谷信道


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