デイリーディボーション 11月2日(金)

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デイリーディボーション 11月2日(金)

2018年11月2日(金)

コリント人への手紙 第2 3:12-14
12このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。13そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。14しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

【ポイント】
①「イスラエルの人々の思いは鈍くなった」とは?
レビ記4章では「2イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合、3もし油そそがれた祭司が罪を犯し、民が咎を覚えるなら、その人は自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。」とあります。律法を「一つ」でも行った場合は、罪の贖いのためのささげものをしなければならいことになりますから、パウロのように律法を真剣に、そして神様の前に正直に守ろうとする人は、場合によっては一日に何度もささげものをしなければならないことになります。

イエス様の時代に律法を教える立場にあった律法学者、パリサイ人に対してイエス様はマタイ23章このように指摘されています。「3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」つまり、律法学者、パリサイ人は、自分たちは律法を完全に守ることはなど不可能であることを知っていたのに、人々には律法の遵守、罪の赦し、贖いのためのささげものを強要し、それが人々にとっての大きな「重荷」になっていたのです。この、神様の本来の思いから離れてしまった姿こそ「イスラエルの人々の思いは鈍くなった」ということなのでしょう。

ですから、イエス様はマタイ11章でこのように言われているのです。「28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

ですから、イエス様がいらっしゃらなければ、罪の重荷につぶされてしまうほか道がないのです。イエス様の福音がなければ、律法はただ人々を戒律に縛り付けるだけで終わってしまうものになってしまうのです。パウロのように純粋に律法を求める人は、イエス様の福音によって神様の計画が完成されることに気がつくはずなのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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