デイリーディボーション 11月20日(水)

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デイリーディボーション 11月20日(水)

2019年11月20日(水)
コロサイ人への手紙  1:28-29 28私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。29このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。
【ポイント】 ①キリストにある成人とは? 「キリストにある成人」という表現から、人間的な成熟(御霊の実をむすんでいる状態)を思い浮かべる人が多いことでしょう。もちろん、それらはクリスチャンとしての成熟に欠くことができないものです。しかし、パウロが考えている「キリストにある成人」の姿はそれだけではありません。これまでの内容からすると「律法の行ないによる義」「律法主義的な宗教観」からの脱却も、クリスチャンとしての成熟であることが分かります。
多くの子どもは、親か教師から怖く言われたり、罰則を設けなければ正しく歩むことができません。反対に、人から言われなくても正しい行動を選び取ることができるようになってくる姿を見る時に、子どもが成長したと感じるわけです。同じように、パウロはガラテヤ3章でこのように教えています。「23信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。24こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」
ですから、イエス様の愛を知り、その愛によって動かされる歩みこそが「キリストにある成人」の歩みであり、戒律、罰則がなければ動けない人は「キリストにない子ども」となるわけです。なぜなら、人から命令されるほうが楽ですし、罰則からくる恐怖で人を導くほうが楽だからです。しかし、子育て、教育や部活動の現場を見れば明らかですが、命令や恐怖が原動力になっているところでは「自主性」は育たないのです。そしてこの「自主性」こそが、誰からも支配されず、自分の選択によって生きる「自由」なのです。命令や罰則がなければ動くことができない人は、命令や罰則(律法)の奴隷であるだけで、そこに「自由」はないのです。
厳しい戒律、禁欲的な生活を強要する教会(教団)で、熱心に信徒教育・弟子訓練が行われていたとしても、それはパウロが目指していた教会の姿とは「似て非なるもの」なのです。そのような信仰の姿は、パウロが教える「成熟」「自由」とは全く別物であることを知らなくてはなりません。パウロは、キリストの教会に無意味な戒律、禁欲主義、律法主義を持ち込もうとする偽教師たちと戦い、そのような人々が教える「まことしやか」な福音に人々が巻き込まれないように奮闘していたのです。
そして、現代に生きる私たちも、パウロの奮闘を受け継ぎ、熱心に健全な教会の姿を求める戦いを続けていくことが求められているのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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