デイリーディボーション 4月24日(水)

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デイリーディボーション 4月24日(水)

2019年4月24日(水)
マルコによる福音書 4:18-19 18もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、19世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
【ポイント】 ①信仰(救い)のステップを必要以上に単純化しない。 ーその2ー ヨハネ14章1節でイエス様は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と語られています。また、使徒パウロはローマ3章28節で「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」、さらに昨日も学びましたが、10章10節では「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」と教えています。今日の箇所も含め、聖書全体を学んでいくと、本当に大切なのは「口で告白して」という行為ではなく、「心に信じて」、つまり「信仰」であることが分かります。
今日の「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで」という状態を考えてみましょう。これは、聖書が教えている「信仰・信じて」という心の状態を表しているでしょうか。そうではありません。「みことばを聞いてはいるが」という箇所から、イエス様が思い浮かべている人物は、イエス様の福音に心を開いている人、一生懸命みことばを学んでいる人、イエス様を信じたいと思っている人だと思われます。しかし、このような状態を「信仰・信じて」と呼んでいいのでしょうか。
マタイ6章24節のイエス様のことばを聞いてみましょう。「24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」さらに、マタイ10章37-38節には「37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」とも記されています。つまり、イエス様を「信じる」とは、イエス様だけを愛すること、イエス様に人生を捧げることであることが分かります。つまり、今日の箇所で描かれている人物は、「イエス様を愛すること」と「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」を天秤にかけたときに、最終的には後者を選んでしまう人、イエス様が好きかもしれないけれど、イエス様を一番に愛している人ではないことが分かります。
「イエス様が好きな人」と「イエス様を愛する人」には大変大きなギャップがあるということなのです。言うまでもなく、イエス様が求められている「信仰」は後者なのです。そして、それは「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」に遭遇するとき明らかにされるのです。しかし、そのようなときこそチャンスでもあるのです。そのような試練にあう時こそ、私たちは自分のイエス様に対する信仰や愛が純粋なものであるのかを確認することができるからです。「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」をイエス様に従うことよりも優先していることに気がついた人は、イエス様に従うことを最優先することを決心することができるからです。
豊かな実を結んでいるという実感が薄い人は、人生の優先順位が間違っている可能性があります。そのことに気が付かないことは、後で大きな後悔につながる可能性があります。自分の心の土地にいばらを生え放題にさせていることがないか、今日しっかりと確認してみましょう!
ライフチャーチ 大谷信道


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