デイリーディボーション 6月6日(木)

150.60.159.37誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 6月6日(木)

2019年6月6日(木)
マルコによる福音書 8:34‐38 34それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。35いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。36人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。37自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。38このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」
【ポイント】 ①「御子を信じる」=「自分を捨て、自分の十字架を負い、イエ様に従う」=「御子を愛する」 今日のイエス様の「招き」は、イエス様についていきたいと思う「すべての人」に向けられているものです。なぜなら「だれでも」と書いてあるからです。例外はありません。
さらに、35節以降から、この「招き」に応えるか否かは「いのち」「救い」に関わる問題であると記されていますので、この招きに応えることが「イエス様を信じること」であることが明らかです。つまり、ヨハネ3:16節の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という箇所の「御子を信じる」とは「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と同じ意味であることが明らかなのです。
それでは、「自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス様についていく」とは、具体的にどのようなことなのでしょうか。罪深い人間でも「私は子どものためなら命を捨てることができます。」とか「妻(夫)が生きることになるのであれば、自分の命を犠牲にしてもかまわない。」と考えることができます。この感覚は「狂気」などではなく「愛」から来るごく自然なものです。純粋な愛とはそのような性質を持っていることは、聖書を読んだことがない人でも知っているのです。つまり「自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス様についていく」とは、イエス様を心から愛するということと考えることができるのです。
しかし、決して勘違いしてはならないのは、イエス様のために命を捨てるとは、イエス様の名によって自爆テロを実行するようなことではありません。そのような命の捨て方は「狂気」以外の何ものでもありませんし、ここでイエス様が求められていることではありません。
「反対に、自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス様についていく」ことをしないということは、イエス様への愛が純粋なものではなく、いい加減なものであることを意味します。「私はこどもを愛しているが、子どものために命を捨てることまではできない。」と聞いたら、その親の子どもへの愛がどのようなものであると感じますか?自分のイエス様に対する信仰、愛をさらに大きなものにしていきましょう。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info