デイリーディボーション 9月3日(火)

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デイリーディボーション 9月3日(火)

2019年9月3日(火)
マルコの福音書 15:31-32 31また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
【ポイント】 ①聖書から離れてはならない。 今日の箇所では「祭司長」「律法学者」たちまで「他人は救ったが、自分は救えない。32キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」と、イエス様を侮辱していたことが分かります。しかし、一般のユダヤ人とは違い「祭司長」「律法学者」の発言の背景に、大変大きな問題が潜んでいることが分かります。というのも、イザヤ書53章には次のように預言されているからです。「8しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」さらに「10しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」もし、メシアが現れたとしたら、「祭司長」「律法学者」などは、その人物が本当にメシアなのかどうかを確認する責任があるはずですし、イザヤ53章などは、真っ先に確認するべき箇所であるはずなのです。しかし、祭司長も律法学者も一般の人々と一緒になって、イエス様はあざけっていたのです。
ここから推測できることは、当時の祭司長、祭司長の側についていた律法学者は、旧約聖書の預言を信じていなかったということです。私たちの感覚からすると、神殿で仕えている祭司や律法学者がイザヤ書を信じていないなどということはあり得ない話なのですが、使徒の働き23章をみると「サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。」とあり、サドカイ人はイザヤ書26章19節に預言されている「死者の生き返り」を否定していることが分かります。それは、サドカイ人は聖書全体を神のことばとして信じていなかったことを意味しています。そして、サドカイ人はどのような人々だったかというと、使徒の働き5章17節には「そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、」と記されている通りです。今日の祭司長も律法学者も「大祭司とその仲間たち」だったわけです。とはいえ、パリサイ派のユダヤ人の中に、「イエスはイザヤ書53章に記されている苦難の僕ではないか?」と疑問を投げかける人もいなかったのです。
使徒の働き8章に出てくるエチオピア人の宦官の話を覚えていますか?彼が読んでいた聖書の箇所はどこだったでしょうか?そうです、イザヤ書53章です。誰でもこの個所を読めば、「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と記されているこの僕が誰なのかを疑問に思うはずです。そして、イエス様の十字架の話を聞けば、イエス様こそがイザヤ書の預言を成就された方であることに気づくはずなのです。
当時のエルサレムの神殿を見たり、ユダヤ人の生活を見れば、彼らが大変宗教熱心な人々であるという印象を受けることでしょう。しかし、今日の箇所をみても、彼らの信仰は聖書から離れたものであったことを垣間見ることができるのです。
他人事ではありませんね。キリスト教の宗教的行為、宗教的伝統、宗教的習慣を大切に守っていることと、神様のことばを大切にしていることは全く別物である可能性があるということです。後者が大切であることは言うまでもありませんね。
ライフチャーチ 大谷信道


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