デイリーディボーション 1月14日(火)

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デイリーディボーション 1月14日(火)

2020年1月14日(火)
テサロニケ人への手紙 第一  3:9-10 9私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。10私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。
【ポイント】 ①「祝福」についての勘違いを正す 残念なことに「祝福」が個人的な「繁栄」「成功」「幸福感」だと思い込んでいるクリスチャンが少なくありません。実際、あなたが自分、家族、国家の祝福を祈るとき、そこに思い描いている祝福の姿とはどのようなものでしょうか。この1点を間違えると、私たちのクリスチャンの信仰は多くの新興宗教のそれと全く変わらないものになってしまいます。例えば、自分の国の繁栄を祈るときに、それが他国の犠牲、他国の搾取の上に成り立っているとしたら、それは本当に私たちが求めるべき祝福と言えるのでしょうか。個人的な「幸福感」の追求というニーズにも注意が必要です。なぜなら、罪の「赦しも」「魂の救い」もイエス様の十字架の贖いも、単なる幸福感の獲得のための道具に成り得るからです。現代の教会は、自分の欲望が満たされることが祝福であるという間違った信仰を助長したり、その自己中心的なニーズを利用して教会の規模を拡大しようとしたりしてないでしょうか。
パウロの喜びは、個人的な「繁栄」「成功」「幸福感」とは、全く異質なものです。パウロの喜びは、自分が神様の計画に参加し、与えられた使命を果たしてることにあります。そこには、地上ではなく、天において神様からの栄誉を得ることができる喜びです。もちろん、これも個人的な幸福感の追求に見えるかもしれませんが、その根本にあるのは「個人」ではなく「神様」の喜びあるという点で、全く異質なのです。
パウロは救われた者が主の愛によって一致し、主を愛する群れとして成長することが神様の喜びであることを知っていました。キリスト者の群れが愛による一致を保つことが、多くの人への「証し」となることを知っていました。イエス様の偉大な戒め(マタイ22章35-40節)の実践の結実が教会であることを知っていました。だから、テサロニケの教会が「主にあって堅く立って」いることに神様が喜ばれていることを知っていました。そのためにこそ自分が選ばれ、救われ、召されていることを知っていたのです。
現代に生きる私たちは、パウロの手紙を読むことができるので、これら「パウロが知っていたこと」を知らなくてはならないのです。聖書を読めばあまりにも明らかなことなので、イエス様にお会いした時に「知りませんでした」という言い訳は、言い訳にもならないのです。
ライフチャーチ 大谷 信道


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